北野武(ビートたけし)監督には映画についてインタビューをしたことがある。彼の作品『アキレスと亀』(2008年)についての取材で、同作品は絵画がテーマとなっていることもあり、映画の内容だけでなく美術についても尋ねた。
だが、もっともわたしの記憶に残っている言葉は映画や美術の話ではない。現在も務めている東京藝術大学大学院映像研究科の特別教授(当時)として、「学生に何を教えているか」だった。
わたしの問いに対して、ちょっと考えた後、彼はこう答えた。
「学生たちをいちばんいいフランス料理店に連れていって食事させること」
映像の演出方法についても教えているのだろうけれど、彼は映画についての知識よりも、「学生に経験をしてもらう」ことが大切だと繰り返していた。
たとえば、一流のフランス料理店でソムリエが出てくるシーンを撮るとする。その場合、映画監督がフランス料理店を経験していなければ映画を撮ることはできない。店内の様子やウェイターやソムリエがどういう動きをするのかを知らなければ映像にならない。
監督になったら、いつもいつも牛丼屋で食事している主人公ばかりが出てくる映画を撮るわけにはいかない。監督の仕事は経験を増やすことだと思う。だから、北野は彼らをいちばんいい店へ連れていく。
一流フランス料理店で食事する費用は大学が出してくれるわけではない。北野武は自腹を切って学生に映画監督の仕事の現実を教えているのである。
北野武の芸名はビートたけしだ。ビートたけしには弟子がいる。たけし軍団と呼ばれるタレントの集まりだ。一軍から三軍まで、これまでに所属したメンバーは数十人を超える。
わたしはそのうちの筆頭メンバーでもあるガダルカナル・タカに会ったことがある。彼は師匠たけしについて、多くのことを語った。
「師匠から教わったのはギャグや芸だけではないんです。普通、お笑いのお弟子さんって、師匠が寿司屋とかで誰かと食事していたら、外で待っていて、下駄を揃えるみたいなことをやるわけです。師匠を気遣って世話をするのが弟子の役目とされています。
でも、うちの師匠は業界の大物と高級レストランで食事をするときは、必ず『一緒に食え』と僕らを連れていく。僕らを同じテーブルに座らせる。僕たちから見れば口もきけないような人たちと食事をする機会をつくってくれるんです。つまり、右も左もわからないような若造に大物を紹介してくれる。
それだけじゃありません。海外に仕事で行くとするでしょう。むろん、師匠はファーストクラスに乗ります。そして、僕ら弟子にも『同じクラスに乗っていけ』とお金を払ってくれる。そんな人いないと思います」
タカによれば、ビートたけしの師匠にあたる浅草の芸人、深見千三郎がちょうどそういう教え方の人だったという。たけしが弟子だった頃の話だ。師匠の深見が一流の寿司屋に入っていった。たけしが外に立っていたら、「入ってこい」と言った。そして、こう続けた。
「いいか、寿司屋がどういうところで、客にどういうやつがいて、トロやウニがいくらするかを知っておくことは大切だぞ。そういうことが芸につながるんだ」
たけし自身が師匠になってからも、そういう教え方を貫いたのだろう。
わたしは一度、ある高級寿司屋でビートたけしと一緒だったことがある。そのとき、彼は確かに若い弟子を連れていた。どうやら運転手をしている弟子だったようだが、「お前はたくさん食え」と寿司をすすめていた。
彼は弟子に生活を教えていた。笑いでも映画の演技でも、人間は自分の生活以上の表現をすることはできない。たけしは日常とは違う生活を体験させることで、弟子に芸の本質を教えていたのだ。
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以上、野地秩嘉氏の近刊『成功者が実践する「小さなコンセプト」』より引用しました。売れた物を毎日記録した柳井正、客を見ることを忘れない新浪剛史、作詞のために酒をやめた秋元康、日々撮影への準備を怠らなかった高倉健……。稀代のインタビュアーが引き出す、成功者たちの血肉の言葉。
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