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星空をたくさん描いたゴッホなのに…なぜか「彗星の絵がゼロ」の謎を天文学者が読み解く

ゴッホの「星月夜」(写真:akg-images/アフロ)
オランダ生まれのフィンセント・ファン・ゴッホ(1853―1890)。フランスのポール・ゴーギャン(1848―1903)やポール・セザンヌ(1839―1906)らとともに、ポスト印象派を代表する画家である。
ゴッホといえば、思い浮かぶ絵は《ひまわり》かもしれない。また、《自画像》も有名である。しかし、他にも顕著な特徴を持つ作品をゴッホの絵に見出すことができる。それは星空が描かれた絵である。有名なところでは《星月夜》《夜のカフェテラス》、そして《ローヌ川の星月夜》などだ。
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ゴッホは星空に何を見たのだろうか?
ゴッホが描いた星空の絵。そこにあるのは太陽、月、惑星、そして星である。また《星月夜》には、天の川と渦巻銀河らしきものもある。しかし、絵に描かれていない天体がある。それは彗星と流れ星(流星)である。美しい星空は描いたのに、なぜ彗星と流れ星は描かなかったのか? ふと疑問に思った。
《ローヌ川の星月夜》の星空の光景はドナティ彗星のスケッチと似ている。この彗星の出現は1858年なので、ゴッホはまだ5歳。はたして見たのか、気になるところだ。
ゴッホが生きていた時代に、肉眼で見えた彗星を調べてみると、8個も見つかる。そのうちの5個は南半球にいれば見えた大彗星なので、ゴッホが見ることができた彗星は3個である。
ドナティ彗星は当然日本でも見ることができた。1858年といえば、日本では江戸時代が終わろうとしていた頃、明治維新1868年の10年前のことだ。京都の岩倉にある実相院にはこの彗星の観測記録が残されている。
ゴッホが絵を描き始めたのは1880年頃だ。それ以降にも大彗星は出現している。しかし、北半球からは見えない大彗星だったので、ゴッホは見ていないだろう。
1882年5月17日には意外な形で大彗星が発見された。なんと皆既日食のおかげで、太陽の近くをかすめ通る大彗星が発見された。X/1882 K1だ。ただ、ゴッホはこの彗星も見ていない。なぜなら、皆既日食が観測されたのは中央アフリカから東南アジアであり、ヨーロッパでは観測できなかったからだ。ただし、大きなニュースになった可能性はある。
ゴッホが肉眼で見ることができる大彗星を見たかどうかはわからないが、ゴッホの絵に彗星は描かれていない。これは事実だ。ただ、仮にゴッホが彗星に興味があったとしても、絵には描かない理由は思いつく。彗星のような突発的な天文現象は昔から忌み嫌われてきた歴史がある。皆既日食もそうだが、何かの凶兆であると考えられていたからだ。
17世紀になって、ケプラーやニュートンのおかげで太陽系の中の天体の運動が科学的に理解できるようになった。そのため、彗星の起源もわかってきたし、日食や月食も問題なく理解できた。
それでも、非科学的な解釈は横行し続け、1910年のハレー彗星の回帰のときには彗星がもたらす毒ガスのせいで人類が滅亡することまで議論されたぐらいだ。また、宗教が絡むと、やはり突発天文現象は嫌われる。
ゴッホは彗星に関心を持っていたのか気になったので、ゴッホの手紙を調べてみた(『ファン・ゴッホの手紙』【新装版】、二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房、2017年。『ファン・ゴッホの手紙I』圀府寺司訳、新潮社、2020年)。
1882年に2つの大彗星が出現している。南天に見えた彗星なので、ゴッホは見ていないはずだけど、ニュースになったのかもしれない。日記に何か彗星に関する記述があるとすれば、その頃だろう。しかしながら、それを示唆する記述は手紙には探し出せなかった。
ゴッホは流れ星も絵に描いていない。ゴッホは、夜、星空を見るのが好きだった。だとすれば、流れ星を何回も見たはずだ。ときには、流星群や流星雨も出現しただろう。1時間あたりに見える流星の個数はそれぞれ数十個から1000個にもなる。
ゴッホが生きていた時代、大規模な流星雨が2回出現した。アンドロメダ座流星群だ。ビエラ彗星が分裂して撒き散らしたダストの雲の中に、地球が突っ込み、流星雨が見えた。
この流星雨は1872年と1885年に出現した。ゴッホが19歳と32歳のときだ。19歳の頃は画商のグーピル商会のハーグ支店に勤務していた。この頃は、まだ絵を描き始めていない。一方、32歳の頃は画家にはなっていたが、オランダの農村、ニューネンにいた。ゴッホの手紙を調べてみたが、流星雨を見たという記述は残っていない。
ゴッホは流れるもの、突発天体を嫌っていたのだろう。そう結論するしかない。
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以上、谷口義明氏の新刊『ゴッホは星空に何を見たか』(光文社新書)をもとに再構成しました。天文学者がゴッホの絵に隠された謎を多角的に検証します。
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