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廃業が決まった「十勝バス」奇跡の復活を成し遂げた男の転機
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.03.22 06:00 最終更新日:2018.03.22 08:05
北海道の帯広市に本社を置く十勝バスの奇跡の復活は、人気テレビ番組に取り上げられ、本にもなった。その主人公が十勝バス社長の野村文吾さん(54)だ。
奇跡のあらすじはこうだ。70年続くバス会社を廃業すると父親から打ち明けられた野村さんが、自分の勤めを辞め、瀕死の状態の会社を継ぐことを決意した。
やがて社長となり、社員とともにアイデアを出し合って、10年後にみごと甦らせたというものだ。
「高校から親元を離れ、親の支援を受けて成長しました。親の収入は十勝地域の皆さんが払うバス代の10円、100円の積み重ねです。父から会社をたたむという話を聞いたとき、そのことを考えました。
もとをただせば地域の皆さんが親代わり。恩返しをしなければと思いましたし、やって駄目だったら皆さんもきっと納得してくださるだろうと。勝算はなかったのですが、根拠のない自信はありました。怖いもの知らずの井の中の蛙ですね……」
こうして当時勤めていた札幌から帯広に移り、十勝バスに経営企画本部長として入社した。1998年、34歳のときである。
野村さんは高校、大学とテニスに打ち込んでいた。北海道の学生チャンピオンにもなり、プロを目指したこともある。
「北海道で1位になれば全国でもトップ10に入れると思っていました」
ところが、全国大会に出ると、思ったように勝ち上がれず、あきらめてしまった。冬の練習施設が不足していたこともあり、当時の北海道はテニス後進地域。加えて専門のコーチもいなくてまったくの我流だったことを言い訳にしてしまった。
テニスはその後の野村さんの人生に影響を与えた。十勝バス入社後、社員との関係を築くのに時間がかかった。テニスの影響が少なからずあった。
「テニスは元来個人スポーツで、自分さえ強ければなんとかやっていけます。会社の中でもこうやれば絶対よくなると、ゴリ押しをしました。
前に勤めていた西武グループでいろいろな成功事例を持っていても、バス業界では信頼も実績もない者が突然やってきて、あれもやれこれもやれと言って、聞いてくれるわけがない。
そのことに対し、僕はチームより個人の気持ちが強かったので、社員に不満を持ち、あたりもしました」
一方で野村さんは団体戦が好きで、チーム意識がないわけではなかった。崖っぷちに立たされてもう駄目となったとき、いろいろな人から教わったのが「真正面から社員に向き合う」ことだった。
それがチーム意識だと気づき、教えどおりに社員に向き合うと「社内に変化が起こり始め、気がつくと大きく変わっていた」。社員との相互信頼が生まれた。
2003年に社長に就任し、2012年には40年ぶりに増収に転じた。地方バスとしては全国初の快挙だった。
きっかけは社員が提案した戸別訪問。バスが利用されない理由は、料金や乗り方がわからない「不安」にあった。
「成果を求めようとしすぎると『一対多』になってしまう。本当にわかってもらえるのは『一対一』のときで、お客さま一人ひとりからうかがったことを、しっかりと実践したことが会社の改革、増収につながりました」
44歳のときに帯広商工会議所の副会頭に抜擢された。視点は地域を超えて北海道、全国へと広がった。
「地方都市は活性化できる伸びしろが大きい。僕は交通の世界から地方創生をやって日本を支えていきたい」
十勝バスは6年間増収を続けている。利用者の利便性を考え、IT会社、大学と共同で、バスに特化した日本初の乗換案内アプリも開発した。今では大手アプリ会社が追随している。
さて、プロのテニス選手をあきらめたことは教訓にもなった。
「もっと追い求めればよかったなとも思う。正直後悔もあるので、今はあのときがあったから現在があると思えるように、いろいろなことを全力で学び、取り組んでいます」
高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』では、黄色が幸せの色だった。黄色い車体で知られる十勝バスが、地域に幸せを運ぶ映像が目に浮かぶ。
(週刊FLASH 2018年3月27日・4月3日合併号)