
写真AC
顔を白塗りにして繊細な化粧をほどこした舞妓さんたちが夕暮れから深夜にかけて輝けば輝くほど、祇園は麗しく恋こがれられる場所となる。
祇園に出入りするには、まずは、お茶屋さんとおつきあいを始め、舞妓さんを呼んでもらいそのご縁のあったかたをひいきにすることからスタートするのが王道であろう。これは簡単ではなく格式の高いことだから、もっと普通のかたへのより広い入り口としては、祇園の「おおきに財団」がある。
この財団の正式名は、公益財団法人京都伝統伎芸振興財団。こちらのスポンサーである企業やメンバーのかたがたと知り合いになるなり、自らがスポンサーになるなりして、京都の5つの花街を応援する活動に関わられるとお座敷に直結する。
1996年(平成8年)に形成された当時はメンバーの一覧がホームページに実名で掲載されていたが、京都企業に限らず錚々たる日本の上場企業のメンバーが連なっていたものだ。花街の活動を支援し伝統文化を継承するという趣旨のもとにいかに皆が力を入れていたのかがわかったものだ。
今は誰がスポンサーかはわからないようになっている。おおきに財団は、友の会の会員も募集しており、こちらは年会費が4万円たらずであり、お茶屋さんの紹介だけならもう少し安い年会費でお願いもできる。祇園甲部には現在、35のお茶屋さんがある。
まあ、そこまで大事になさらなくても、庶民としては、まずは都をどりを見に行くこと、そして憧れの舞妓さん芸妓さんの顔と名前を覚えて応援することからスタートするのが普通の楽しみの始まりだろう。
祇園の京料理のお店やバーなどから、都をどりのキャストを書いた番組表を見せてもらうなりいただくなりして、主役級を舞われるねえさんがたがどなたなのか、都おどりの夏の場面で、秋の場面で、それぞれの役を舞っていたのはどちらの芸妓さんだったのかということを勉強する。プログラムでお顔を覚える。
そうしているうちに、お気に入りの舞妓さん、芸妓さんができてくる。日本舞踊に目が肥えてきたら、秋の温習会に応援にいくと良い。こちらの開催はわずか1週間たらずで、舞台で舞うのは祇園甲部の精鋭だけだから、それだけに値段も高いが美しい舞を集中して見ることができる。
■チェリーブロッサム・ダンス
都をどりにご案内しても、実際には人によってその反応はさまざまである。外国の友人であれば、紹介する際には、私はめんどうくさいと「チェリーブロッサム・ダンス、バイ、マイコアンドゲイコ。テリブリー、ゴージャスアンドロマンティック。ベーリーエクスペンシブキモノ、アンド、パーフェクト、ダンシング」などと説明するが、ともかく連れて行ってしまえばこっちのものである。
日本人でも途中の長唄などの場面では唄の歌詞が聞き取れないといった理由で飽きてしまうかたもいるが、最後の満開のかがり火に桜が乱舞する場面の幕があがると、必ず、客席からは「おおっ」という声が響く。何度見ても、日本人にも外国人にもうけるチェリーブロッサム・ダンシングのフィナーレである。
終演後には、外国人観光客も、「ワンダフル」だの「トレ・ビアン」だの満足そうに賛辞を惜しまないのが普通である。
都をどりでは、お茶席つきの券を買えば舞台の前に、舞妓さんのお手前を見ながら、お茶をいただき、桜の焼き印の押された可愛い上用饅頭を食べられる。お団子の柄がついたお皿は持って帰れる。お皿のお団子の色は、白、紺、紅、緑、茶、とあるので、違った色を集めるのも楽しい。
昔々のこの団子皿のなかには焼き方が良いのかつなぎ団子の絵師の腕が素晴らしかったのか、相当な値段がつくものもあるという。最近は普段使いにちょうど良い、気軽に使える可愛らしい小皿である。お懐紙に包んで丁寧に持って帰ろう。
祇園には特別な仕組みがあると誤解されがちだが、通常のお店で飲食をし、現金で会計を済ませる分には、何も構える必要はない。カードよりも現金が好まれるのは、どこも同じ。常連になれば顔なじみのやりとりが生まれ、お釣りも決まってぴんとした新札で戻ってくるのが、京都らしい心地よさでもある。
お茶屋さんに出入りするようになれば、その場で支払いをせず、後日、請求書での請算となる。とはいえ、請求の頃には何をどれだけ飲んだかなどは曖昧になっており、「ま、こんなものか」と納得して支払うのが、客側のたしなみである。
金額に違和感があれば、それもまたご縁。静かに足を遠ざければ良いだけのことだ。お客を納得させる額をはじき出すのがお茶屋の女将の腕である。
■一見さんお断り
いわゆる「一見さんお断り」は、確かに京都・祇園には今も残る慣習の一つである。ただし、これを冷たい排他性の表れと受け取るのは少し早計かもしれない。
元々は、異なる文化やマナーをもつ人同士が、お互いに気まずい思いをしなくてすむようにという、静かな気遣いの表れである。格式のある空間では、ともに過ごす時間を心地よいものにするための、慎みと配慮が自然と求められるのだ。
祇園の普通のお店ならホームページで情報を得て、予約をして訪れるというスタイルが一般的だが、祇園のお茶屋さんではそれが通用しない。なじみのかたからのご紹介があって、初めて暖簾をくぐることができる。
祇園でふらりと訪ねたお店で「今日はご予約でいっぱいでして」あるいは「申し訳ありませんが……」とやんわり断られたとしても、それはただ相性を大切にする京都らしい穏やかな距離感の一つ。決して排除ではなく、美しく調和のとれた時間を守ろうとする、静かな心配りに他ならない。
これも別に京都人がとくに部外者に意地悪をしているというわけではなく、互いに異なる文化やマナーの標準を身につけている人同士が嫌な思いをしないですむようにとの配慮のたまものである。お茶屋さんだけは必ず一見さんお断りなので、しかるべきルートをたどろう。
同じお店でも相手によって言うことは柔軟に変わる。ある人に対しては「一見さんお断り」と言って断ったお店が、一見さんを快くお店に入れてもてなしてくれる場合もある。要はそのお店の品格と相性が良い顧客かどうかの見定めを一瞬でしているということだ。だから実際に祇園のどのお店が一見さんお断りで、どのお店がそうではないかということが絶対的に決まっているわけではない。
たとえ本当に満席であったとしても、もしその時のあなたのふるまいやたたずまいにどこか心地よさがあれば、「このあたりでおすすめのお店はありますか」とそっと尋ねてみると、思いがけずすてきな一軒をご紹介いただけるかもしれない。祇園は狭い町である。店同士は競いながらも、どこかでつながっていて、お客様のご縁を大切に育ててゆく文化がある。「○○さんのお店で聞いてきて」とか「○○さんに教えてもらって」などの一言で扉が開くこともある。
歓迎されるのは、建物のたたずまいや、室内のしつらえ、器にそっと目をとめられるようなお客様である。たとえば、そこに活けられた花が辻村史朗先生の花入に収まっていることに気づく、あるいは壁の花入が先生の息子さんの作品だとわかる──そんな気づきが、会話の扉を開いてくれることもある。
ジンリッキーのグラスがバカラのアンティークだったり、季節の枝物が控えめに香っていたり、さりげなくも心尽くしのある光景に、自然と気づける感性こそが何よりの鍵だろう。良いお客になるにも勉強は必要だ。
あわてず、飾らず、まずは町を味わい、静かなまなざしをもって歩くこと。それだけで、祇園は少しずつ、温かな表情を見せてくれるはずだ。
無理に背伸びをする必要はない。わからないことがあれば、素直に尋ねれば良い。かつて私自身、まだ祇園の空気に慣れていなかった頃、カメラを肩から提げてバーに入り、何気なくカウンターの上に置いてしまったことがある。
その時、マスターが微笑をたたえながら、「カウンターは空けておくものですよ」と、静かに教えてくれた。その言葉は今も記憶に残っている。だから私はバーカウンターにはけっして物を置かない。
祇園で心地よく時間を過ごすためには、日々のささやかな学びや心の準備が、やはり助けになる。たとえば、石畳の道を歩き、老舗のバーの扉を押す。にこやかに挨拶を交わし、勧められた席に静かに腰を下ろす。飲み物を注文してから、ようやく店内を見渡す。その一つひとつの所作が、自らの呼吸を整え、祇園という景色に自分をなじませる儀式となる。
店に慣れてきたら、常連たちやご主人と、新しく開いた店の話を交わしたり、映画について静かに語り合ったりする。そうしているうちに、自分もこの祇園という絵巻の一部となり、景色に溶け込んでいく。
祇園の楽しみは、華やかな舞台の中央にあるのではなく、静かな所作や交わされる言葉、あるいは壁にかかる団扇の並び順のなかに、そっと息づいている。そうした気配を見つけ出すまなざしこそが、祇園を味わうための鍵なのである。
※
以上、安田雪氏の新刊『ほんとうの京都暮らし 12ヶ月を愉しむ作法と美意識』(光文社新書)をもとに再構成しました。東京生まれの社会学者が京都に20年近く暮らして、ようやくわかってきたこの街でのふるまい方、味わい方とは。
●『ほんとうの京都暮らし』詳細はこちら