
レスリング90キロ級で2大会連続で銀メダリストを獲得した太田章氏(写真・梅基展央)
「男子レスリングの重量級では、日本人選手は通用しない」
長く世界のレスリング界で言われてきた定説だ。その高き壁を打ち破ったのが太田章氏だった。
1984年ロサンゼルス五輪、1988年ソウル五輪と2大会連続で90キロ級で銀メダルを獲得。不可能とさえ言われてきた重量級でのメダル獲得に「日本重量級の歴史を塗り替えた男」と讃えられた。引退後は母校である早稲田大学人間科学部助教授を経て、68歳となった現在、同大スポーツ科学部教授として教壇に立っている。
そんな章氏の体に“異変”が現われ始めたのは、今から7年ほど前のことだった。今回、その思いもよらぬ症状から現在に至るまでを章氏とともに、妻の美玲(みすず)さんが振り返ってくれた。
「ある日、右手に痺れが出たので、大学の医務室に行ってみると『病院で検査をしたほうがいい』と言われました。検査の結果は脳梗塞で、即入院でした。治療は点滴でしたが、リハビリが耐えられなかった。やることはお風呂の入り方、トイレの便座への座り方、服の着方など。右手の痺れ以外はいたって普通だったので『そんなのできるよ』といつも心の中で叫んでいました(笑)。それが1週間続くわけですからね。『大学の授業もあるし、忙しいから出してくれ』と懇願し、退院できました」(章氏)
当初、検査に難色を示していた章氏だったが、検査を勧めたのは美玲さんだったという。
「右手の痺れだけでしたけど、心配だったので、検査を受けてほしいと伝えました。後遺症がまったく残りませんでしたから、早く病院に行ってよかったと思います。やはり検査は早めに行くことですね」(美玲さん)
章氏曰く「妻は薬剤師ということもあり、すごい心配性なんです」とのことだが、1週間程度の入院で済んだのは美玲さんの判断のおかげだったことは間違いない。脳梗塞を克服し平穏な日々を送っていたものの2025年2月、再び“異変”が起こった。
「自分の部屋でお酒を飲んでいて、もう1杯飲もうと、キッチンでグラスにお酒を入れて戻るときのことです。妻にバレるのが嫌で、屈みながら部屋に戻ろうとしたとき、転んでしまって後頭部を強く打ったんです。当時の記憶は曖昧で、匍匐前進のような恰好で自分の部屋に戻ったそうです。妻によると『ものすごい音だった』ようで、私を起こそうとしたものの、まったく起きずビンタを何度も食らったそうです(笑)」(章氏)
美玲さんの脳裏には脳梗塞のことがよぎり、翌日には医者に連れて行こうと試みたというが、章氏は「ぶつけることなんていつものこと」と断ったという。それでも美玲さんは最終的には病院に引っ張るように連れて行った。
「正直『何もなければいいや』と病院に行ったんですが、診察の結果は急性硬膜下血腫。前回同様、即入院となりました。医師の説明によれば、交通事故やボクシングでKOを食らった選手によくみられるとのこと。生存率を調べると、『急性ならば50%』という文字が目に入り、『俺は死ぬのか』という言葉が一瞬よぎりました」(章氏)
急性硬膜下血腫とは、頭蓋骨の下にある硬膜(脳と脊髄を覆う膜の1つ)と脳の間に出血が起こり、そこに血液が急速にたまることで、脳を強く圧迫する状態のこと。
「1カ月が経ったころ、CTスキャンで見てみると、脳の中に影が見える。それが溜まった血液で、抜かなければいけないということでした。頭蓋骨に穴をあけてそこから血管を出して血を出すわけです。脳梗塞のときと違い、これはただことじゃないぞと、そのときハッキリ認識しました」(章氏)
最初の手術は2月に始まり、それから5月まで、毎月のように入院を繰り返した。
「4回入院して、手術は2回でした。手術で血を抜くわけですが、最後まで抜くと圧がかかりすぎてしまうので、残りは管で1日かけて抜くんです。大抵は1回血を抜くとそれで大丈夫ということでしたが、主人は血が溜まりやすい体質でもあったようで、抜いてもすぐに溜まってしまった。最初の手術のときは命の心配をしましたね。助かったとしても、意識がなかったり、半身不随になったらどうしようと、悪いことばかり考えてしまいました」(美玲さん)
手術の際には麻酔の効きが弱く、痛みで苦しむ章氏の体を何人もの男性看護師が押さえつけることもあったという。
「麻酔のせいで、手術に至るまでの経緯や自分が喋ったことを覚えていません。じつは、頭蓋骨に穴を開けるときには看護師さんに対して、『痛て、この野郎』と罵ったらしいんですが、全然覚えていないです。もしかしたら、効かなかったのは、お酒の飲みすぎかもしれない(笑)。
最終的に入院と手術のおかげで溜まった血を無理なく抜くことができました。医師からも『こうなれば治る病気ですよ』と太鼓判を押してもらい、ようやくホッとしています」(章氏)
退院後、私生活は大きく変わったという。現役時代は90キロ級の選手で、引退後は100キロを超える体格。酒量も相当だったというが、現在は大好きなアルコールからは程遠い生活を送っている。
「退院後はノンアルコールビールになりました。退院してから半年近く経ったころ、僕の授業を取っている社会人の生徒たちが退院祝いの会を開いてくれました。医師に『乾杯ビールは?』と聞いたところお許しが出たので、乾杯を楽しみに行くと、生徒たちから『まだ先生に飲ませちゃいけない』と言われ、結局ノンアルとなりました(笑)」(章氏)
禁酒以外にも、数年前にはまるで関心のなかったことにも挑戦しているという。
「毎日歩いています。時間が合えば、たとえば池袋から早稲田まで1時間かけて歩きます。昨日はとくに歩いて、午後から夜にかけて16000歩でした。距離にしたら12kmは歩いていますね。ただ鉄則として歩きながら休めるところを捜しています。神社とか公園とか。少し休めば回復しますから。
ほかにも、もともと体格の割に食事は多く摂るほうではなかったんですが、お酒を抜いてから三食きちんと摂るようになり、体調はすごくいいです」(章氏)
章氏の健康志向に喜ぶ美玲さんだが、心配なこともあるという。
「退院翌日くらいから歩き始めたので、心配しました。しかも、なぜか夕方に歩きたがる(笑)。当然暗くなってきますから、時間が経つと『迎えに行こうか』と連絡することもあります。じつは、お酒を飲んでいたころ、頻繁に連絡を入れてくれていたんです。ただ、このところあまり携帯を触らないのか、連絡の間隔が空くと心配になります。どこかで倒れているんじゃないかと。なので『大丈夫?』メールを送ったりしています」(美玲さん)
章氏が元気になればなるほど活動範囲が広がり、逆に美玲さんの心配事は増えていく。そうしたとき、心強い“援護射撃”をしてくれるのが今年小学校6年生になった長女の存在だ。
「僕は再婚で妻は19歳年下なんです。この関係が何とかなっているのも、長女がいるから。そうでなければ、とっくに僕は捨てられていますよ(笑)。入院中、小学生は病棟へのお見舞いができないということで、テレビ電話でしか顔を見ることができなかった。そのとき僕の頭蓋骨には管が通っていて、『みじめだなあ』と思ったものです」(章氏)
章氏の入院中、当然長女も心配していたという。
「娘も年ごろで、主人に対してもあまり表情に出さないんです。でも、ものすごく心配していたのは間違いありません。自宅には他界した主人の両親の写真が飾ってあるんですが、入院中は毎日1人で写真の前に立ち『お父さんを助けてください』と手を合わせていたんです。主人の前では無関心を装うんですが、私以上に心配していたと思いますね。とにかく、生活に不自由なく戻ってこれたわけですから、皆さんには感謝しかありません」(美玲さん)
最後に章氏は美玲さんへの感謝を述べた。
「脳梗塞のときも急性硬膜下血腫のときも、妻が無理やり医者に連れて行ってくれたおかげで残った命なんです。僕1人だったら病院には行っていませんよ。頭にいまだ開いている2つの穴を触ると、ぶり返してはいけないと思いますね」(章氏)
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