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太平洋戦争の激戦地「ガダルカナル島」を襲ったもう一つの戦争…人類学者が見た「社会の変容」とは

ライフ・マネー 記事投稿日:2026.06.20 06:00 最終更新日:2026.06.20 06:00

太平洋戦争の激戦地「ガダルカナル島」を襲ったもう一つの戦争…人類学者が見た「社会の変容」とは

ガダラカナル島(写真:picture alliance/アフロ)

 

 太平洋戦争の激戦地として知られるガダルカナル島は、島のいたるところに兵器の残骸や危険な不発弾が残っており、戦死した将兵の遺骨を収集する日本の団体も頻繁に訪れます。

 

 首都ホニアラの日系ホテルに勤務するアラドの主な仕事も、戦跡観光に訪れるツーリストの案内、および日本の遺骨収集団と現地コミュニティのあいだのマネジメントでした。

 

 ところが1998年から2000年頃にかけて、ソロモン諸島ではもう一つの戦争が起きていました。それは「民族紛争(エスニック・テンション)」の名で呼ばれる、ガダルカナル島の人々と、戦後移住してきた隣のマライタ島の人々のあいだの武力衝突です。

 

 この紛争によって移住先を追われた数万人のマライタ島民が故郷への帰還を余儀なくされ、さらにオーストラリアを中心とする多国籍軍の介入を招くなど、ソロモン諸島社会に現在まで続く大きな影響を与えました。

 

 ガダルカナルの人々が紛争を起こす大義名分となったのは、戦後になって土地や仕事を求めて移住してきたマライタ島民の一部が、ガダルカナル島民の殺害や慣習的土地権の侵害を行ったことでした。

 

 そこで武装勢力のリーダーたちは「他人の土地を土足で踏み荒らすような連中はとっとと自分の土地に戻れ!」と言ってマライタ人の家や財産を焼き、マライタ島に追い返したのです。

 

 この紛争の最大の激戦地の一つがガダルカナル島東端にあるマラウでした。マラウは少なくとも16世紀頃からマライタ系住民の海外コロニーであり、そこに住む人々はマラウを故郷と見なしていました。言うなれば古代ギリシア人が地中海沿岸に築いた植民市のようなものです。

 

 ところが紛争が始まると、ガダルカナルの武装勢力はマラウの人々を「マライタ系」で一括りにして攻撃します。ニューカマーのマライタ系住民のほとんどがガダルカナル側の言い分を認めて撤退したのに対し、マラウの人々は一歩も引かず抵抗し、死者数十人という現地の基準ではきわめて激しい戦いが繰り広げられたのです。

 

 むろん、こうした一般的な知識は現地に渡航する前から本やネットで知っていました。私の興味を惹いたのは、歴史的にマラウとつながりが深いアレアレ地域出身の同居人たちが語る紛争当時のエピソードでした。

 

 マラウにはいくつもの島が浮かぶ大きなラグーンがあり、人々はその最も外洋にあるマラパ島に避難しました。マライタ島南部においてこの島は伝統的に死者の魂が行く場所とされており、いまもなお畏れの対象となっています。

 

 彼らによれば、この聖なる島にはガダルカナル側の武装勢力も手出しをせず、逃げ込んだ人々自身もさまざまな不思議な経験をしたといいます。

 

 2016年7月になってやっと現地に渡航できることになりました。ホニアラの中心部にあるポイント・クルーズの埠頭から小さな船に乗り込み、船酔いと過密に必死で耐えること一晩、ようやくマラウに辿り着きました。うねる外洋から一転し、船は静かなラグーン内を滑るように進みます。

 

 やがて立派なコンクリート製の桟橋が見えてきました。桟橋の背後には警察署とNGOのオフィス、学校、診療所、漁業ステーションが見えます。ソロモン諸島の基準ではかなり発展している場所といっていいでしょう。

 

 それもそのはず、この場所はソロモン諸島と近代の出会いにおいて重要な結節点となってきたのです。元々マライタ島民の海外コロニーだったマラウには、19世紀半ばからヨーロッパ系商人が進出し、交易ステーションやプランテーションを設けました。その流れでソロモン諸島初のカトリック教会がこの地に設立されます。

 

 こうした外への門としてのマラウの位置づけは現在でも続いており、2012年にイギリス王室のウィリアム王子とケイト妃が南太平洋諸国を歴訪した際には、かつてプランテーションだったタヴァニププ島にある国際リゾート地に数日間滞在しました。

 

 ガダルカナル島の経済的中心地であったマラウにとって紛争のダメージは大きく、戦後はその経済的地位が低下しました。それでも再建されたリゾートや各種援助事業の活動拠点など、貨幣収入を得られる場所が比較的潤沢にあることから、よりよい暮らしを求める国内移民の目的地として、現在もなお一定の存在感を保っています。

 

 こうして私はマラウの地に上陸し、いよいよ調査が始まったのですが、そのなかで「なにかが違う」という感覚が次第に心に降り積もっていきました。

 

 一つは「外人慣れ」「援助慣れ」の態度です。道を歩いていて「ヘイ、ボス!」とからかわれることがよくありました。このからかいの背後にあるのが、マラウの人々の「援助」に対する深い失望感です。

 

 紛争のあと、激戦地となったマラウには、戦後復興と平和構築を掲げた欧米の非政府組織が次々とやってきました。最初は現地の人々の大きな期待とともに迎えられた援助事業は、やがて失望に変わります。私が話を聞いたある現地の有力者の男性は「結局のところやつらはやつらの実績作りのために俺たちを使ってるだけだった」と断言し、いまではみんなワークショップにタダ飯を喰うために行っている、と付け加えました。

 

 援助や貨幣経済への依存は、人々の関係性のあり方にも影響を及ぼしているようでした。最初のホストファミリーは仲介役・レナードの親族でしたが、彼からは滞在費を月割りで請求されました。日本なら常識の範囲ですが、ソロモン諸島社会において親族の連れてきた人間、つまり広い意味での「親族」とのあいだにお金が介在するのは、普通はあり得ない感覚です。

 

 これはもちろんいっさいお礼をしなくていいということではなく、長期のギブアンドテイクの関係はあります。けれども曖昧な関係はあくまで曖昧なままに、あるいはお金とは別のかたちで示すべきであるというのが、現地の一般的なコンセンサスです。

 

 人類学において、ものの価値をたとえば金額のようなかたちで一義に規定でき、かつそれを支払うことでものと生産者の関係を切断し、自由に転移することができる経済を貨幣経済、それに対しものと人が切り離されず、ものを与えたり受け取ったりすることを通じて人間同士の関係性が作り上げられていく経済を贈与経済といいます。

 

 われわれの生きる近代社会では貨幣経済が支配的なのに対し、ソロモン諸島のような国々、とくに村落部では、いまもなお贈与経済的な暮らしが残っています。

 

 話を戻すと、私は首都にいるとき、同居人たちから「町の暮らしはお金がかかるけど、村に行けば全部タダだよ」と何度も聞かされていました。ところがマラウはソロモン諸島のなかでも例外的に、かなり貨幣経済が浸透している社会だったのです。

 

 

 以上、橋爪太作氏の新刊『人類学のつくり方 自分の日常から知識を編む』(光文社新書)をもとに再構成しました。人類学研究の「リアル」とは? ソロモン諸島での現地調査と人類学100年のメソッド紹介を組み合わせた「読むフィールドワーク」。

 

●『人類学のつくり方』詳細はこちら

出典元: SmartFLASH

著者: 『FLASH』編集部

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