
熊本県 “最長寿” 1203年創業の盛高鍛冶刃物27代目の盛高経博さん(写真・駄道賢剛)
応仁の乱や戦禍、バブル崩壊も乗り越えた各県の “最長寿企業” を取材した。設立1000年超の企業であっても、現場には変化を恐れず挑戦を続ける姿勢が息づいていた。
そこに共通していたのは、時代の要請に応じて姿を変え続けてきた歴史だ。本記事では、「西日本」で出会った “最長寿企業” の営みを紹介する。
なお、創業年やどの企業が県内で “最長寿” に当たるかについては、見解が分かれるケースが少なくないことをあらかじめお断わりしておく。
■【1203年創業】盛高鍛冶刃物(熊本県)
鎌倉時代からの刀匠の技を包丁に
大量生産の時代にあって、手打ちの一生モノの包丁が熱い支持を集めている。
「最近の100均の包丁もよく切れますね。ですが、うちのは “研ぐ” が前提。そんな手入れに魅力を感じ、ひとつのいいものを大切に使い続けてくださるファンが増えていますね」
そう語るのは、社長で27代目の盛さんだ。
「もちろんプロからの注文はよくいただきますが、熱心な愛用者は、もともと料理がお好きで、さらにのめり込んでいかれるような一般の方のようです」
物価高が続く折、 “おうちごはん” 派が増える流れも追い風となり、一番人気の牛刀は注文から半年待ちという。
「製品化が難しい最高級鋼の『青紙スーパー』を鍛え上げる技には自信があります。そこにも開祖・金剛兵衛源盛以来の、鎌倉時代からの刀匠の技が生きていると思っています」
経博さんが説く包丁の3カ条「切れ味と耐久性と研ぎやすさ」こそ、700年以上続く盛高鍛冶刃物の真骨頂だ。
■【平安期創業】A.M.Aファミリーズ榮農場(滋賀県)
託された休耕田を守り、価値を高める
平安時代から米作りを続けてきた中井家が営む農場だ。
中井栄吾社長の父・榮夫さんは、若き日にアメリカで農業研修を受けた際、輸出用穀物の集荷場でこのような言葉を耳にしたという。「食べるのはどうせ “ジャップ” だから」。
そこには、大量の農薬が使われている現実があった。榮夫さんは、長男・栄吾さんのアトピー性皮膚炎発症などを契機に、減農薬の米作りへと舵を切った。
父は2年前に亡くなり、現在は栄吾さんが社長として、東京ドーム9個ぶんの田んぼを耕す。大半が、周辺農家の高齢化で生じた遊休農地だ。
「私たちは、農家でありながら米屋でもある。ここでは米を収穫しているだけじゃない。託された土地を守り、その価値を高めているんです」
と語る栄吾社長。弟の栄緒さんらとともに、米の生産や選別、販売までを一貫して手がけている。新品種「きらみずき」の弾むような粒立ちに、そんな力強い覚悟が滲む。
■【1184年創業】藤戸饅頭本舗(岡山県)
「ひとつの商品」を800年、すでに “後継者” も!?
「ずっとひとつの商品だけ作ってきました。別に家訓でもないのに、どうしてでしょうね(笑)」
そう屈託なく明かすのは、現在の当主である金本博行さんの妻・和美さんだ。
「もともとは近くの藤戸寺の境内にあったそうです。源平合戦の戦没者供養のため建てられたお寺で、饅頭もそのために作られ始めたと聞いております」
歴代の備前藩主が茶の湯を奨励した歴史的背景と、良質の備中小豆に恵まれたおかげで、岡山では小粒の薄皮饅頭が広く親しまれるようになった。
「2人いる娘のうち、どちらかが継いでくれれば」と和美さんは語る。娘の一人には小3を筆頭に3人の子供がおり、すでにレジ打ちなど店の手伝いが大好きだという。令和のその先へ、伝統が引き継がれる光景が今から目に浮かぶ。
■【1582年創業】尾道造酢(広島県)
カクテルにも! “大人のお酢” に社運
1960年代には大手マヨネーズメーカーの設立に参画し、2000年代には調味酢「そのまんま酢のもの」がヒットした。華やかな実績の一方で、今も手作りで仕込む発酵槽で、酢酸菌の膜をすくう地道な作業を続けている。
「毎日手入れをしなければ、酢酸菌が弱ってしまいます。だから土日でも、工場長と交代で様子を見に行きますよ」
と語るのは取締役の田中丸善要さん。2022年に発売した酢ドリンク「KAHISU」に社運をかけているという。「きっかけは、ポン酢などに使った後の橙の皮でした。果汁を搾った後、残った皮は廃棄していたのを、なんとかできないかと思ったんです」
田中丸さんの脳裏をかすめたのは、韓国での「美酢」の大ヒットだった。
「つくだ煮の風味づけなどに使われていた果皮酢を、いかに飲みやすくするかに挑戦しました」
橙らしい香りとほろ苦さが引き立つ、カクテルにも使える “大人の飲むお酢” がここに完成したのだ。
■【1628年創業】鍋島藩窯 市川光山窯(佐賀県)
「最先端の技術」が結実!「黒鍋島」を次世代に
「自分の仕事を “伝統工芸” と呼ばれるのが嫌でね。いまや自動車製造も日本のお家芸ですが、誰も伝統だなんて言わないでしょ。私も最先端の技術に取り組んでいるつもり」
19代目の窯主の市川光山さんは前向きに語る。
「うちは、明治時代に民営化されるまで、鍋島藩の将軍家や諸大名への献上品のみを焼いていた藩窯の系統なんです。通常の有田焼とは一線を画す歴史があります」
伝統に胡座をかかない姿勢は、自身で開拓した「黒鍋島」という新たな表現に象徴される。
「高度な技術が必要とされる鍋島焼のなかで、次世代の若手たちがしっかり取り組み、その腕を磨いていける新たなフォーマットが必要でした」
薄さと耐久性を持ち、漆黒の地に赤絵の描写の技巧が冴える至極の優品だ。
取材/文・鈴木隆祐 取材協力・(一社)100年経営研究機構
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