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絶対に首を切らなかった日本の「名経営者」(5)小倉昌男
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.10.12 16:00 最終更新日:2018.10.12 16:00
アパレル大手の三陽商会が3度目のリストラをしたり、大正製薬が創業以来初めてリストラしたりと、相も変わらず、リストラのニュースが流れ続ける。
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かつて、日本企業には「絶対に首を切らない」と宣言した数多くの経営者たちがいた。そんな名経営者たちを紹介していこう。今回は、2度のリストラを悔いて雇用重視を謳った社長だ。
「新しい事業をしようとするとお役人は必ず規制を作る。それを乗り越えるとまたひとつハードルを作る。それの繰り返しだ」
口を開けば必ず行政批判をしたのが、規制撤廃の旗手だったヤマト運輸の故・小倉昌男(2005年6月死去・享年80)だ。外に厳しく、内に優しかった小倉はまた「人員削減をする経営者は失格」と雇用重視を唱えてもいた。
その裏には過去の“体験”があった。以前、リストラをして嫌な思いをしたことがあり、その後は二度としたくないという気持ちが強くなったというのだ。
同社に詳しいジャーナリストによれば、それは「第1次石油ショックの1973年と、バブルがはじけた1993年の2回のリストラだという。
1971年、父の後を継いで46歳で2代目社長に就いた小倉は、オイルショックの影響を受けて輸送量が前年に比べ25%減少したため、人員整理を余儀なくされた。
新規採用を止め、独身者や主婦などの臨時社員をリストラし、1973年からの2年間で約1000人の社員を減らした。このとき、それまでの大口貨物から民間初の小口貨物の配送へ切り替えたのが『ヤマト宅急便』の誕生だ。
その後、紆余曲折を経て、順調に業績を伸ばしたのは周知のことだが、同社はご多分にもれず大企業病にかかっていた。感謝の気持ちや礼儀すら失っていたという。使い込みなど不正も目立ち、1991年にいったん会長を退いた小倉は、2年を限りにして1993年復帰、再び前線に戻った。
「社風刷新3カ年計画を打ち出し、社内の浄化に力をいれ、不良社員を辞めさせた。また純収入に占める人件費の抑制策も打ち出した。労使の対立が強い業界にあって、小倉は組合からも慕われ、好々爺のところがあったから、リストラはさぞかし辛かっただろう」(前出ジャーナリスト)
1995年、ヤマト運輸の一切の役職から離れた小倉は、1993年に設立した「ヤマト福祉財団」の仕事に専念する。クリスチャンで、マザー・テレサを尊敬した玲子夫人の影響も大きかったに違いない。
「これがあの会長の作った財団かと思えるほど質素な事務所だった。小倉は弱者や障害者への思いが厚い。やはり首切り、人員削減の辛さが身に沁みたのではないか」(同)
ヤフーファイナンスで連結従業員数を調べていると、現在、ヤマトホールディングスは、日本で7番目に従業員が多い企業となっている――。