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社長と意見合わず左遷されたラジオマン、映画DJに転身

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.11.22 11:00 最終更新日:2018.11.22 11:00

社長と意見合わず左遷されたラジオマン、映画DJに転身

 

 五十にして天命を知る。だが荒木久文さんの場合は、天命を知ったわけではなかった。大学卒業後勤めてきたラジオ局を、初めて辞めようと思ったのが、50歳のときだった。

 

 辞めてどうするかは決めていなかった。それを決めるまでもう少し猶予が欲しいという気持ちだった。理由は多くのサラリーマンが経験する、仕事に対する上司との考え方の違いである。相手が新任社長だったから、事は深刻だった。

 

 

「系列のテレビ局から、まったく考え方の違う社長が着任したのです。ラジオの本質を理解しようとせずに、テレビの手法をそのまま持ち込もうとした。極端な話、ラジオはテレビの人気番組の音声を流せばいいみたいな。

 

 ラジオマンとして、自分の活躍できる場所がなくなったという失望感がありました。ラジオ局は大きな組織ではなく、人と人とのつながりを大切にして築き上げていく世界。特に番組制作はそう。

 

 ラジオ育ちの私にはとうてい認められないやり方で、それが最初の転機となりました」

 

 当時の役職は編成部長。プロパーの局員としては事実上、現場トップの地位だった。したがって、圧力や押しつけがすべてまわってきた。

 

 これまでやってきたことはすべて否定され、やがて編成から外され、コンテンツ事業部という、同僚がアルバイト1人の新部署に飛ばされた。

 

「インターネット事業などを考えろと言われ、売り上げノルマだけを押しつけられた。でも、そのときはインターネットとラジオを連動させ、新マーケットを作ってみようと、むしろやる気が出ました。

 

 ほかにも東京ドームの巨人戦ではドーム内向けのラジオ実況をおこない、それを聴くためのラジオレンタル事業や、レコード会社とコラボして、中年向けのCD作りなどを仕掛けた。

 

 それらがうまくいってノルマを達成すると、今度は営業にまわされました」

 

 局内に居場所はないと感じた。会社は60歳定年だが、65歳まで延長できた。しかし、ラジオマンとしての誇りもあった。50代の半ばになる前に60歳で辞めると決め、やることを見つけようとした。

 

「ファイナンシャルプランナーの資格を取ったり、樹木医になろうかと考えたりもしました。

 

 コンテンツ事業部在籍時に、映画評論家や監督たちと新しい形の映画紹介の番組を作り、配信していました。映画業界と強いつながりを持っていたので、映画に関わっていたいという思いがありました。

 
  その番組を通じて日本映画ペンクラブの存在を知り、映画の勉強をもっとしたかったので、推薦してもらい、会員になりました。
  

  それからは、仕事が終わると毎日映画を観に行くようにしました。ただ、映画の仕事を始めようとは思っていなくて、趣味の範囲でした」

 

 60歳で退職。すでに、映画紹介の原稿を書いていた。会社を辞めることを周囲に話すと、「なら、うちの番組でしゃべってみない?」と他局の友人たちから声がかかった。

 

「ありがたかった。海の物とも山の物ともつかないわけですから。最初は地方局やFM局から始め、多いときは5局で映画紹介の番組を構成して、しゃべっていました。

 

 番組で取り上げる映画の数は月に約15本。単発番組があると20本ぐらい。月に20本とすると年に240本。番組で取り上げる映画だけを観るわけではないので、2017年は400本近く観ました。

 

 朝10時から夜の8時まで試写を観つづけることもあります。観るだけでなく原稿を書いて、番組の構成もしなければいけないので、たいへんですが、楽しいし、疲れも感じません」

 

 現在、荒木さんは新聞社が主催する映画賞の選考委員や審査員も務める。

 

「今後は微力ながら、日本映画の発展に役立ちたいし、個人的にはスポーツ関連の映画作品を専門的に評論、紹介していきたい」

 

 社長には感謝しているそうだ。もし社長との対立がなかったら……。映画の楽しさやおもしろさを軽妙な語り口でわかりやすく紹介する、映画評論家兼ラジオパーソナリティは生まれなかった。

 

(週刊FLASH 2018年11月27日号)

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