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留学で出会った名医が「歯科医」の未来の扉を開いてくれた

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.12.20 11:00 最終更新日:2018.12.20 11:00

留学で出会った名医が「歯科医」の未来の扉を開いてくれた

 

 東京・杉並区の浜田山は高級住宅街として知られる。浜田山駅から歩いて1分ほどの商店街に、山中デンタルクリニックはある。院長の山中隆平さんが、ここにこだわったのにはわけがある。

 

 父親は日本赤十字社医療センターで麻酔科部長を務めた内科医で、この街に内科と小児科の医院を開いた。山中さんは、この街の人たちが払う診療費で大学まで行き、歯科医となった。その恩返しの気持ちと、地元の医療の役に立ちたいとの思いがあった。

 

 

「幼いころから、医療の道を志していました。困っている人たちを治療して収入が得られるのは、素晴らしいことだと思っていましたから。

 

 父と異なる歯科医を目指すようになったのは、高校生のときに舌がんや顎のがんについての特集番組をテレビで見てからです。歯科医でもこういう特殊なことができるのだなと思って、格好よさに惹かれてその道へ進みました」

 

 昭和大学歯学部に入学。24歳で歯科医となり、同大学歯科病院の第一口腔外科に入局。28歳のときに米国のUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に留学した。それが大きな転機となった。

 

「それまでは日本を日本の中でしか見ていなかったが、客観的に見るようになった。すると、日本社会のおかしな点がいろいろ見えてきて、日本をもっとグローバル化していかなければいけないと思った。そこが、自分が根本的に変わったところです」

 

 歯科医療についても同じことがいえた。幸いなことに、インプラントの最新の技術を持ち、世界的に有名なサーシャ・ジョバノビッチを紹介され、アシスタントドクターを務めながら研鑽を積んだ。

 

 4年近くに及んだ研究生活に区切りをつけて帰国し、大学に戻った。しかし、教授の指示に、疑問を感じるようになった。

 

「米国流に、自分の意見を主張するようになっていましたので、『それでは向こうで学んできた意味がない』と断わり、大学を辞めました」

 

 その後、六本木の診療所に3年間勤めた。しかし、リーマン・ショックの影響もあり、売り上げ重視の運営方針に反発して辞めた。それからの1年間は、出張手術などをしながら、開業の準備をした。

 

「2011年、東日本大震災の1カ月前に地元で歯科医院を始めました。36歳のときで、第二の転機となりました。昔は薬局や花屋だった店が閉まったままなので、気になって不動産屋で聞いてみたら、家賃が高かった。

 

 ところが、大家さんが地元の先生だからと、僕の提示した額で貸してくれました。震災の影響はなかったのですが、もし都心のビル群で開業していたらどうだったのか。

 

 だから導きがあったのかなと思ったりします。それに父の患者さんたちが、息子さんだからというので来てくれました。それがいまに至るきっかけになりましたから、親には感謝しています」

 

 診察台3台で始めたが、すぐ5台に。4年後、奥の事務所が移転したため大家に頼み、壁を取り払ってスペースを広げ、診察台は8台に。さらに2018年、隣のマンションの1階が空いたので借りて改築し、3台の診察台を入れた。

 

「定期検診の患者用です。クリーニングなどをしているときに、隣で虫歯を削っている音がすると患者を不快にさせるので……」

 

 顔や顎をスキャンして、デジタルですべて診断できるという、日本では非常に珍しい装置も導入した。

 

「今も骨の移植やインプラントが専門です。インプラントを入れたくても、歯槽膿漏が進んで骨が溶けてしまっているとできない。そこで顎から骨を取って移植したり、歯茎を作ったりします。

 

 特別な治療なので、トレーニングなどが必要になってきます。もちろん一般治療もしていますが、歯科医院は特徴がないと難しい時代。1年に1回は、米国のボスのところでアップデートをしています」

 

 将来は小児歯科もやりたいそうだ。

 

「子供って予防すれば虫歯にならないし、気をつければ歯並びもよくなる。回避できることがいっぱいあります」

 

 父親の背中を見続けてきた、山中さんならではの将来像なのかもしれない。

 

(週刊FLASH 2018年12月25日号)

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