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『めちゃイケ』放送作家、高田文夫の鞄持ちから成り上がる
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.12.27 06:00 最終更新日:2018.12.27 06:00
男鹿のナマハゲなど「来訪神」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された。ロシアのザギトワ選手に贈られた秋田犬のマサル、日本中を熱狂させた夏の甲子園の金足農業高校と、2018年は秋田の話題が多かった。
放送作家の「元祖爆笑王」さんは秋田出身であり、秋田に関係するさまざまな肩書を持っている。
「子供のころはドリフターズが好きで、学校で『ちょっとだけよ』『うんこちんちん』とか、ものまねをして笑わせる人気者。
ドリフみたいになりたい、とテレビの世界に憧れがあった。当時は放送作家なんて知らなくて、高校生になって初めて青島幸男や大橋巨泉の存在を知った。
それでとにかくテレビ局に入ろうと思い、そのために日本大学藝術学部を受験して合格した。銀行員の親父は『なんだ、この学校は! 卒業してからどうするんだ』と怒った。秋田のテレビ局に就職しに戻ってくるから、と言って納得してもらった」
大学のキャンパスを歩いていたら、新間一弘さんという1年先輩から声をかけられた。
「落語研究会に入らないか?」
「秋田弁なので、江戸っ子のようにしゃべれたらいいなという思いもあったが、半分、騙されたかなと思いながら入った」
そして3年生のとき、合宿で落語研究会OBの高田文夫と出会い、その後の人生が決まった。
「当時、高田先生はビートたけしさんのほとんどの番組の構成をしていた放送作家。先生から、『君は何になりたいんだ?』と尋ねられ、新間先輩は『落語家!』。『じゃあ、談志師匠を紹介してやる』」
こうして、立川志らくが誕生する。
「『お前は?』と聞かれ、『テレビ局に入ってドリフみたいな番組を作り、演じたい』。すると、『バカじゃないのか!』とひと言」
高田によれば、番組を作っているキー局に就職できても、制作部に行けるとは限らない。
それなら「俺みたいに放送作家になって、いろいろなテレビ局に出入りして、番組を作るのも手だぞ」。すぐに、高田の事務所で電話番や、鞄持ちのアルバイトを始めた。4年生のとき、落語家の桂米助を紹介され、弟子になる話が出た。
「親に話すと『落語だ、放送作家だとふざけるな。卒業したら田舎に戻って就職する約束だろう!』。入社試験の日は、親の手前、スーツを着て試験会場に行くふりをして、公園で時間をつぶした。
そのときはもう高田文夫先生の弟子として、放送作家になることを決めていた。両親からは帰ってくるなと勘当され、35歳まで秋田には戻らなかった」
放送作家としてのテレビデビューは、26歳のときの『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』。番組の終わりに構成作家の1人として名前と出身地が載った。
番組は秋田のテレビ局でも放送され、両親も知ることになった。そして31歳のとき、ナインティナインの『めちゃ×2イケてるッ!』が始まった。
「元祖爆笑王」の名は、番組の総監督がこのとき命名したものだ。番組は2018年の3月に終了した。53歳まで22年間を番組とともに過ごした。
「いちばんの思い出はナイナイの岡村隆史と、秋田県にある同名の岡村という村にロケに行ったこと。アポなしだったが、岡村の人たちも喜んでくれた。秋田に少しは恩返しができた」
35歳のときに秋田テレビからオファーがあり、5分間、正味1分半のネタ番組『爆笑一番』を始めた。バナナマンなどの人気芸人を東京から秋田まで連れていき、普通4、5分のネタを1分半にしてもらった。
それが大ヒットして、それからショートのコントや漫才が流行るようになった。その前後の時期には、『漫才入門』と『コント入門』を上梓した。芸人のバイブルとしていろんな人が読んでくれている。嬉しい。
現在はまだ「めちゃイケロス」状態だ。
「いまが転機かな。次の番組を作ることより、まず若手の制作者、お笑い芸人を育てたほうがいいかなと思って」
母校の日大や札幌、東京、大阪にある専門学校などで、お笑いやテレビ制作について教えている。
「岡村みたいなやつを育てたい」
元祖爆笑王の最高傑作となる芸人を見てみたい。
(週刊FLASH 2019年1月1、8、15日合併号)