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夫が倒れて20年…仕事と介護の両立に55歳で出した答えは起業
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.06.13 11:00 最終更新日:2019.06.13 11:00
人生100年時代といわれる。実際にそうなった場合、いったいどれだけの人が親や夫、妻の介護で苦しむことになるのか、つい考えてしまう。松本タカ子さん(66)は、2歳年上の夫の介護を20年間続けてきた。
その一方で仕事を続け、10年前には中高年の人材を派遣する会社を設立した。人生の転機をもたらした介護と経営。両立が難しそうな両者を、どのように続けてきたのか。
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「主人が倒れたのは1999年4月、私が45歳のとき。大学生の息子と、短大生の娘の最後の学費を、主人と2人で振り込みに行った日でした。
子供の教育費を払い終えたことを祝うため、家族4人で夕食をとろうとしたそのとき、主人の様子がおかしい。『どうしたの?』と尋ねた瞬間、床に崩れ落ちたんです」
救急車を呼び、救急病院へ。脳内出血と診断されたが、症状が重く、対応ができない。再び救急車で東京女子医科大学病院へ。すぐに集中治療室へ搬送された。しかし、左脳の出血箇所が脳幹に近く、手術ができなかった。
幸いなことに右脳そのほかに出血はなく、命に別状はなかった。
「2日後に、集中治療室から個室へ移りました。先生からは、『寝たきりか、よくても車椅子の生活になる可能性がある』と告げられました。もっと軽いと考えていたので、ショックを受けた私を見て、先生は『リハビリで機能の改善が見込まれますので、リハビリをしっかりやることが大事です』。リハビリ!?」
45歳からの自分の人生を、夫の介護だけで終わらせたくはなかった。リハビリに関する本を何冊も買い、学んだ。どの本にも、発症後6カ月間が、機能回復の勝負どころと書かれていた。主治医にも、同じことを言われた。
こうして松本さんの、夫に対する厳しいリハビリ生活が始まった。
「病院のリハビリ時間は1、2時間程度で、あとはベッドで休んでいる。時間がもったいない。車椅子に乗せて、病院内を散歩。エレベーターに乗ったら、行き先階のボタンを押させたり、売店でお茶を買うときは、ひとりで買わせるようにしました。
リハビリを始めた当初、夫は声が出せなかった。『いいから言いなさい』と言うと、『アー、ウー』と声を絞り出す。『次は、ジュース、ジュースと言って!』……という具合に、根気よく声を出させました。やらなければ回復しません。
病気のせいだとわかっていても、ガーッと言いました。でも数分後にはボケーッとして、夫はアハハとテレビを見ている。ストレスが溜まりました」
1カ月後、リハビリに専念するために東京都立大塚病院へ転院。努力が実り、車椅子を使わずにタクシーで移動でき、転院先では驚かれた。
夫の介護と並行して、派遣社員として10年間働いた。
「働かなければ生活ができなかったし、そのころには夫の介護も、つきっきりでやる必要がなくなっていました」
松本さんは、秋田県の高校を卒業後に上京し、金融機関に就職した。育児休暇を取ったりはしたが、夫が倒れるまで勤め上げ、豊富なキャリアを持っていた。
派遣社員は時間の融通がきき、しかも身内の事情を説明しなくてすんだ。夫の介護があると言うと、色眼鏡で見られることがあった。その後、中高年の人材派遣業に関わっていたが、紆余曲折あってその会社を離れることになった。
それが転機となり、2008年、55歳のときに起業した。そのころは、リーマン・ショックの真っただ中だった。
「最初は、事業計画もありませんでした。会社を設立したいちばんの理由は、主人をリハビリに連れていきながら、自由に時間を使えるからです」
松本さんが立ち上げた会社は、中高年の人材派遣、事務代行、職業紹介、レンタルオフィスの運営など、手広く事業を展開している。
2019年3月に、夫の介護体験を綴った『五粒の涙』(幻冬舎)を上梓した。それを読むと、松本さんにとって介護と経営は、両立しがたいものではなく、表裏一体のものだったことがよくわかる。さて、ご主人の近況は……。
「『要介護2』から、今は『要支援2』にまで回復しました。立って歩けますし、動かせる左手で、茶碗も洗えます」
介護と経営の両立。世の中には、見事な人がいるものだ。
(週刊FLASH 2019年6月18日号)