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名経営者は「焼け跡」で何をしたのか/パナソニック
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.08.16 06:00 最終更新日:2019.08.16 06:00
それは敗戦の翌日だった──。1945年8月16日。松下電器(現パナソニック)の松下幸之助社長(当時50)は、幹部を本社講堂に集め「直ちに民需産業に復帰する」と緊急経営方針を示した。続く20日には「松下電器全従業員に告ぐ」との通達を出し、こう訴えた。
「生産こそ復興の基盤である。伝統の松下精神を振起し、国家再建と文化宣揚に尽くそう」
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これが文字どおり焼け跡からの第一歩となった。戦争によって日本は約300万人の死者を出し、国家資産の約4分の1を失った。松下電器も、大阪、東京を中心に32カ所の工場、出張所などが被災している。
戦前に「二股ソケット」や「砲弾型自転車用ランプ」といった生活必需品でヒット商品を生み出していた松下は、1943年、軍の要請により松下造船、松下飛行機を相次いで設立。木造船や木製飛行機といった軍需品の製造を余儀なくされていた。
「当時は配給制で原材料がないと何も作れない。原材料をやるからと言われれば、軍需製品を作るしかなかった」(経営評論家)
幸之助が終戦直後に「民需への復帰」を号令したのは、それが松下の悲願だったからだ。
いち早く復興の陣頭指揮をとるトップの姿は、敗戦で打ちひしがれた従業員を鼓舞し、生産準備は着々と進んだ。
ところが、終戦直後の1945年9月、松下は会社解体の危機に見舞われる。GHQにより財閥指定を受け、1946年11月には幸之助以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けたのだ。
幸之助は50数回もGHQに出頭して抗議し、1947年、ようやく社長に復帰する。
こうした混乱のなかで、終戦の年、すでに松下は民需製品の生産を再開していた。その先駆けが「木製探見電灯」だった。物資不足のなかでやむなく開発した木製の懐中電灯である。
そして、復興の礎となったのが、戦前からある真空管4本の「並四ラジオ」だった。これが大きな利益を上げ、経営再建に貢献した。
その後、爆発的な家電ブームが起こると、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれて大衆の憧れの的になり、それとともに松下は急成長を遂げる。
「繁栄こそが幸福で平和な生活をもたらす」
この松下幸之助の言葉こそ、平和産業を目指しながら、戦時下、軍需製品を作らざるをえなかった幸之助の心からの叫びなのだ。