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1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/称号は「ミスター聖火」
連載FLASH編集部
記事投稿日:2018.07.16 11:00 最終更新日:2018.07.16 11:00
2020年に開催される東京オリンピックの「聖火リレー」コンセプトが公表された。それは、《Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。》というものだ。
ギリシャで採火した火を「復興の火」として、岩手・宮城・福島の被災3県で順次展示しつつ、全国47都道府県を回ることになる。
いったい、聖火はどのようにしてギリシャから運ぶのか。
それを知るために、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。
1964年の聖火リレー、それはすでに招致決定前から走り出していた。オリンピック招致の前哨戦として開催された、1958年の第3回アジア競技大会・東京大会がそれである。直前のIOC(国際オリンピック委員会)東京総会に出席した各国の委員たちの前で、ビッグイベントを実現できる力を証明した形だ。
第3回アジア競技大会は、もうひとつの意味で東京五輪聖火リレーの「原点」だった。この大会から、アジア競技大会でも初めて聖火リレーが行われることになったのだ。もちろん、東京五輪での聖火リレーをにらんで実施されたことは明らかだ。
具体的には、聖火の採火はギリシャのオリンピアではなく、前回アジア競技大会の開催地フィリピン・マニラで行われた。
採火された聖火は、空路で沖縄へ。当時、沖縄は米軍占領下である。沖縄本島でリレー後、聖火は入国手続きのため、飛行機で岩国空港に着陸。そこから鹿児島に持ってきて、国内は陸路で東京までリレーしていく……。
この行程は、岩国への着陸以外ほぼ実際の東京オリンピックの聖火リレーに踏襲されている。
1958年4月22日、マニラのリサール・スタジアムで聖火の点火式が行われた。このとき、現地に派遣されて聖火に帯同した人物が、式典委員である中島茂という男だ。
中島茂は、1914年、佐賀県に生まれた。東京高等師範を卒業して教員となり、旧制佐賀高等学校で教鞭を執った。また、発足したての滑空部の責任者として、グライダーの操縦指導にもあたっている。
その後、佐賀県体育保健課長に就任。さらに1950年には文部省入りして上京する。第3回アジア競技大会に文部省から召集された中島は、聖火派遣団員のほか、トーチ・リレー委員、式典部の聖火係も担当する。
ここで聖火と縁ができた中島は、東京五輪でも聖火リレーでの要職を担い、いわば「ミスター聖火」とでもいうべきキーパーソンとなっていく。
このアジア競技大会の成功を受けて、1959年5月26日に西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC総会で、東京が1964年の五輪開催地に決定。同時に、東京五輪の聖火リレー・プロジェクトも正式にスタートした。
1960年8月12日、ギリシャのオリンピアでは厳かな雰囲気の式典が執り行われていた。同年開催されるローマ五輪のための聖火採火である。古代遺跡に集まった多くの人々のなかには、何人かの日本人たちも混じっていた。
東京五輪組織委員会のスタッフと、それを取り巻く報道陣である。あと4年のカウントダウンが始まった東京五輪のための下見として、見学に来たのである。もちろん、そのなかに中島茂の姿もあった。
中島はローマ五輪の開会式にも出席し、その模様を逐一記録して東京に持ち帰った。その後、中島は東京五輪の式典副本部長も務め、東京五輪開会式・閉会式の中枢的な役割も担うことになる。
●夫馬信一
1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。