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1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/不運に次ぐ不運
連載FLASH編集部
記事投稿日:2018.07.20 11:00 最終更新日:2018.07.20 11:00
ギリシャで採火された聖火は、どのように日本に運ばれるのか。それを知るため、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。
1964年8月23日に聖火と派遣団を乗せてアテネを出発した日本航空のDC-6B「シティ・オブ・トウキョウ」号は、中東を越えて東南アジアへと旅を進めた。
聖火は訪問したどの都市でも歓迎され、その国のトップ・アスリートや若者たちによるリレーと盛大なイベントが催された。
そんななかで、聖火係メンバーの気の使いようは尋常ではなかった。特に「ミスター聖火」中島茂は、ほかの人がレセプションに呼ばれている間も、ひとりタクシーを飛ばして翌日のリレーコースを予習した。
新聞記事のインタビューによれば、「毎晩聖火が消えた夢をみてしまう」くらい思い詰めていたというから、気の休まる暇はなかったのだろう。
順調に予定を消化して、日本までの旅路もあとわずかとなった9月4日、一行が到着した香港には強い雨が降っていた。台風17号(ルビー台風)の接近である。
それでも聖火リレーがスタートし、シティ・ホール(香港大會堂)で歓迎イベントが行われた。だがその夜、事態は急変。台風が猛威を奮い出したのだ。天候の悪化を受けて、香港の啓徳空港は閉鎖となり、「シティ・オブ・トウキョウ」号の出発は24時間延期となってしまう。
だが、日本を間近にした段階でのスケジュール変更は重大問題だった。特に困惑したのは、国外リレーの終点で国内リレーの出発点でもある沖縄の関係者である。
沖縄は、聖火を熱望して準備を重ねて来た。日程を詰めるわけにはいかない。だが、後がつかえていて他の都道府県にも譲れる余地はない。
慌てて組織委事務総長の与謝野秀らが沖縄入りして調整を図るが、話し合いはなかなかまとまらない。結局、1日遅れで沖縄に着く聖火は「分火」されて、一方が予定通り沖縄で4日間のリレー全日程をこなし、もう一方が鹿児島へ運ばれることになった。ネパールのカトマンズで使われた「分火」作戦の再現である。
ところが香港では、さらに信じ難い出来事が起きていた。
「シティ・オブ・トウキョウ」号の補助翼(エルロン)と操縦系統が破損して、飛行不能になったのである。当時イギリス植民地だった香港では、なんにせよイギリス籍の飛行機が優先であり、「シティ・オブ・トウキョウ」号は格納庫に入れなかった。結果、同機は暴風雨のなかで野ざらし状態になった。
日本航空は、ただちにジェット機のコンベアCV880M「アヤメ」号を代替機として手配。同機は9月6日の午前中に香港に到着した。この日には天候はすっかり回復。聖火も無事リレーされて、啓徳空港へと運ばれて来た。
聖火係の中島茂が聖火灯を自ら抱きかかえて代替機「アヤメ」号に乗り込み、いよいよ一行が出発しようとしたそのとき……不運にも、離陸体勢に入った「アヤメ」号は、エンジンの不調で立ち往生してしまう。
整備士たちが懸命の努力をしても、すぐに復旧するのは無理。もはや万事窮すか……。
ここで、たまたま啓徳空港にいた日本航空のコンベアCV880M型のジェット機「カエデ」号に注目が集まった。この「代替機の代替機」によって、聖火と一行はようやく香港を飛び立つことが出来た。
翌朝には、修理が終わった「シティ・オブ・トウキョウ」号も香港を出発。次の目的地である台北で一行と合流できた。次の目的地は、いよいよ沖縄である。
9月7日正午、聖火を乗せた「シティ・オブ・トウキョウ」号が那覇空港に姿を見せた。静寂に包まれていた空港は一転して歓喜の嵐となる。
東京五輪聖火リレーは、当時、アメリカの統治下にあった沖縄では特別な意味を持っていた。戦後、沖縄は日本にとって「外国」同然の場所となっていた。そんな沖縄で日の丸を掲揚すること自体簡単なことではなかったのだ。
こうして東京五輪国外リレーは、何とか無事に幕を降ろすことができた。
●夫馬信一
1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。