「高校生のとき、阿倍野(大阪市)で偶然鶴瓶と会うて、一緒に帰ったことがあるんです。このあたりまではバスで45分。その間、延々と落語を聞かせてくれた。面白かったですよ」
大阪市平野区長吉長原。笑福亭鶴瓶(64)の生家近くで、小・中学校の同級生が教えてくれた。
レギュラー番組が週に8本。芸能界随一の人脈を持ちながら、「2千円札の枚数より俺のサインのほうが多い」と語るファンへの応対。そんな“稀代の落語家”はいかにして生まれたのか。
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生家はいまも残る4軒長屋だ。5人きょうだいの末っ子で、本名は駿河学。3人の姉たちに化粧されたり、水着を着せられたりしながら大きくなった。
「中学までは細くて、あんまり目立てへん奴やった。通ってた塾でも、鶴瓶の成績はいちばん下(笑)。宿題が出ても、『学校の宿題ができひんのに、塾の宿題なんか無理やわ』と言うて、大きな顔して座ってたわ」(前出の同級生)
別の同級生の思い出は強烈だ。
「小学5年か、6年のとき、クラスの男子がケンカをして、順位を競ったことがあるんです(笑)。鶴瓶は直接参加せず、『次はお前とお前がせい』と、胴元みたいなことをやってました」
進学したのは、のちに赤井英和も入学するボクシングの名門、浪速高校。鶴瓶も同部の門を叩くが、視力低下で退部を余儀なくされる。そして立ち上げたのが落語研究会だ。同級生が語る。
「授業が自習になったりすると、教卓の上に座布団を敷いて、落語をしていました。しゃべりは面白いし、熱心に練習していましたね」
別の同級生は、電話口で苦笑いした。
「授業中、教卓の真ん前の席で、よう下半身裸になっとったわ(笑)。何年もあと、テレビ見てたら、たまたま駿河くん(本名)が出てて、裸になりよった。今もこんなことしとるんやと思った(笑)」
●関西の人気を不動にした2時間半のフリートーク
1970年、鶴瓶は京都産業大学に入学する。大学では2つの出会いが待っていた。まず、入学試験の会場で、のちに妻となる玲子さんと遭遇したこと。もうひとつは、清水国明、原田伸郎と仲よくなったことだ。清水と原田のグループ「あのねのね」は最初期、鶴瓶と玲子さんを加えた4人組だった。
大学は2年で中退。1972年に笑福亭松鶴に入門し、松竹芸能に所属する。ライバル・吉本興業の若手マネージャーだった木村政雄氏(のちに常務取締役)はこう語る。
「当時は、アフロヘアの型破りな落語家でした。私は、鶴瓶は吉本向きだと思って、何度も『おいでよ』と誘った。でも、移籍していたら漫才ブームに巻き込まれて、その陰に隠れていたかもしれませんね」
入門後、鶴瓶は1年のうちにオーディションに次々と合格し、6本のレギュラー番組を持つ。
1978年、『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ大阪)が始まった。鶴瓶が、関西での人気を不動のものとする番組である。『ぬかるみの世界』は、鶴瓶と放送作家・新野新によるラジオ大阪の深夜番組。音楽はほぼ流れず、2時間半にわたる2人のフリートークが売りだった。
放送開始から1年後には、「おじん・おばん(寡黙な人・陽気な人)」「雪女(処女のこと)」「メー(メンス=生理のこと)」といった「ぬかるみ語」や、「有名人のうち、誰が握ったおにぎりを食べられるか/食べられないか」などの話題で盛り上がる「ぬかる民」が急増する。
鶴瓶の師匠・松鶴は鶴瓶に落語の稽古をつけたことが一度もなかった。若くしてマスコミの寵児となった鶴瓶と、兄弟子たちとの間のバランスを考慮したためだ。高座からは次第に足が遠のき、いつしか鶴瓶には「落語のできない落語家」というレッテルが貼られた。
鶴瓶は落語への思いを封印し、テレビやラジオに自らの活躍の場を求める。
人気ラジオ番組『MBSヤングタウン』や、テレビバラエティ『突然ガバチョ!』(毎日放送)などの構成を担当した放送作家・演出家の寺崎要氏が当時を振り返る。
「鶴瓶ちゃんは、発音も滑舌も悪かった。『うぉら、うぉら』とか言ってね(笑)。でも、それが逆によかった。母思いの人で、いつの間にか、お母さんの話をしている(笑)。笑いはもちろん、しんみりとした話もできたので、ラジオでよかったんです。
ですが、テレビでブレイクするまでは少し時間がかかりました。1981年の『鶴瓶と花の女子大生』(関西テレビ)がターニングポイントかもしれません。女子大生を呼んで、トークや旅をする夕方の番組で、テレビ局が本気で視聴率を取りにいくようなものではなかった。
でも、鶴瓶ちゃんは、素人の女子大生の魅力をうまく引き出していた。『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK)の原型みたいなものでしょう」
●春風亭小朝からの誘いで古典落語にチャレンジ
1986年、鶴瓶は、『突然ガバチョ!』が関西圏以外でも放送されたことをきっかけに、東京進出のチャンスを摑む。翌1987
年には『笑っていいとも!』(フジテレビ)に出演を開始。その後、全国的な人気を獲得する。
芸人としてビートたけし、タモリ、明石家さんまの「お笑いビッグ3」に匹敵する成功を収めた鶴瓶。だが、一方で話芸への探究は続いていた。
2002年は鶴瓶にとって「運命の年」となった。6月、春風亭小朝から思わぬオファーが届いたのだ。
「国立演芸場の二人会で古典落語を演じてみませんか。あなたならできる」
鶴瓶は悩んだ末、依頼を受けた。51歳、古典落語への挑戦が始まる。
「鶴瓶ちゃんは、昔から『50歳を過ぎたら落語をやる』と言っていました。これまでバラエティで培ってきたことを集約し、自分の力で道を切り拓こうとしている。きちんとした人生設計、戦略も窺えますよね」(前出・木村氏)
落語評論家の広瀬和生氏が「落語家・鶴瓶」の魅力について語る。
「鶴瓶さんは、当代随一の話芸の持ち主で、自分の身の回りのネタを話すだけの『鶴瓶噺』も抜群に面白い。そんな人が落語をやったら、面白くないわけがない。いま、鶴瓶さんは『鶴瓶噺』を完成された演目にした『私(わたくし)落語』として磨き上げている。鶴瓶さんは、かつて『落語をやらない落語家』でした。そんな鶴瓶さんにしかできないことがたくさんあると思います」
鶴瓶は、大ホールで落語をやるようになってからも、小さな小屋での落語会を欠かさない。それは、日本一の芸人になった今も、学校の教卓の上で演じた「落語少年」の心を忘れていないからに違いない。
(週刊FLASH 2016年9月27日、10月4日号)