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“日本フィギュアの母” に聞いた、五輪メダル獲得の裏話/女子アナ日下千帆の「美女は友達」

芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2022.02.24 16:00 最終更新日:2022.02.25 10:07

“日本フィギュアの母” に聞いた、五輪メダル獲得の裏話/女子アナ日下千帆の「美女は友達」

日下アナ(左)と城田さん

 

 2月20日に閉幕した北京五輪フィギュアスケートでは、女子シングルで坂本花織選手が銅、男子シングルで鍵山優真選手が銀、宇野昌磨選手が銅と、合計3つのメダルを獲得することができました。

 

 近年、日本選手が表彰台に上がる光景は当たり前のように感じますが、ここに至るまでには、先人たちの長い時間をかけた戦略がありました。

 

 

 今回ご紹介する美女は、伊藤みどり選手から羽生結弦選手まで、世界トップクラスのスケーターたちを育ててきた、元日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長の城田憲子さんです。

 

 城田さんご自身も、かつて女子シングルおよびアイスダンスの選手として活躍し、1966年3月と11月には、アイスダンスで全日本選手権を連覇する輝かしい成績を残されています。

 

 城田さんがスケートを始めたのは、小学4年生のときでした。家族旅行で軽井沢に行き、凍った湖でスケートをするために靴を買ってもらったのです。その後、後楽園アイスパレスに練習に行くようになりました。

 

「休憩時間になると、全日本選手権に出る選手たちが、音楽をかけて練習を始めるのです。色鮮やかな衣装に身を包み、華麗に滑るお姉さんたちを見て、私もやってみたいと母に伝えました。バレエの経験もあり、運動には自信がありました。実際、やればやるほど結果がついてきました」

 

 高校1年生のとき、全日本フィギュアスケートジュニア選手権のアイスダンスで初優勝。翌シーズン、初めての全日本選手権で銅メダルを、2回めの全日本ジュニアではシングルで銅メダルを獲得しました。

 

 立教大学進学後、1965〜66年、1966〜67年の両シーズン、全日本選手権のアイスダンスで2度の優勝を果たしました。その後の活躍も期待されましたが、城田さんはここできっぱりとスケートをやめてしまいます。

 

「1965年の世界選手権では、佐藤信夫さんが4位に入賞していました。ようやく日本人も世界の表彰台に上がれる時代が見えてきましたが、私自身はそのイメージができませんでした。

 

 それで引退を決意し、後楽園アイスパレスからの帰り道、水道橋駅へ向かう橋の上から、スケート靴を神田川に投げ捨ててしまったのです」

 

 それから城田さんは、「人生はいろいろ」とばかり、ゴルフやテニスに打ち込んで、卒業と同時に結婚。そのまま家庭に入られました。

 

 ところが、新居に引っ越してまもなく、城田さんをスケートの世界へ引き戻す運命的な出会いがありました。

 

 同じマンションに、彼女の引退を引きとめようとした先輩が住んでいたのです。その方のすすめで、三笠宮崇仁親王のアイスダンスのお相手となり、リンクに通ううちに、連盟の一員になるよう声をかけられました。こうして、いつのまにかスケートの世界に戻ったのです。

 

 しばらくは主婦業中心で、無理のない範囲で活動しましたが、1978年3月、天才少女・伊藤みどり選手との出会いによって、日本人が世界の頂点に立てるかもしれないと夢を抱くようになりました。

 

「1992年のアルベールビル五輪に向けて、『伊籐みどりプロジェクト』10年計画が始まりました。全種類のジャンプが飛べるのはもちろんですが、メダルを取るには日本を売り込むロビー活動も必須なのです。

 

 当時、フィギュアスケートの国際大会は、いま以上に華やかな社交の場でした。みどりにドレスを贈り、テーブルマナーを教えてデビューさせたのです。ジャッジやISU(国際スケート連盟)の幹部に、彼女のジャンプはすごいという予備知識を持ってもらうことに成功しました」

 

 アジアでいち早く国際大会を誘致して、日本スケート連盟の力を世界に認めさせたいという思いから、NHK杯 国際フィギュアスケート競技大会が1979年に創設されました。連盟の力を認めてもらうことで、選手を世界に見せるチャンス、売り出すチャンスがめぐってくるのです。

 

 その後、城田さんは1994年から2006年まで日本スケート連盟フィギュア強化部長を務めました。

 

 2006年、トリノ五輪で金メダルを取った荒川静香選手も、城田さんの巧みな戦略により、試合直前の心理戦で “すでに勝利していた” そうです。

 

「試合前の練習で、トリプルを3回飛んで、飛べるのを会場で見せつけなさい、と助言しました。アメリカとロシアの選手が、壁に張りついて見ていました。戦いとはそういうものです。無理難題を選手とともに克服するのが、私たちの仕事です」

 

 頼もしいです。しかし、スケート連盟の仕事に没頭するあまり、ご家族とのコミュニケーションが疎かになってしまっていたようです。城田さんのお嬢さんが、エジプトでクレイ射撃の世界選手権に出場し、銀メダルを取っていたことにさえ、気づかずにいたのです。

 

「スポーツ新聞で記事を見つけた記者の方から、知らされたありさまで、娘の銀より、日本のスケート連盟に金だったのです(笑)」

 

 今後は、継続的に若手を育てるシステムづくりやスケーターたちのセカンドキャリアのサポートをしたいと話す城田さん。4年後のミラノ・コルティーノ大会についても、期待できると語ります。

 

「鍵山選手以外にも、全種類のジャンプを飛べる若手が何人かいますからね。4年後も楽しみにしていてください」

 

 こうしたオリンピックの舞台裏や日本のフィギアスケートの歴史を、城田さんは、著書『たかがジャンプ されどジャンプ』(集英社)にまとめています。3月19日にはマリーグラン赤坂でトークショーもあるそうです。

 

■成功への3カ条

(1)夢を夢で終わらせず、絶対実現する
(2)目標を定めたらあきらめない
(3)人には真正面で向かい合う

 

日下千帆(くさかちほ)

 1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当するほか、supercareer.jpで個人向け講座も

 

( SmartFLASH )

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