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元フジ・高木広子さん 落ち着いた報道アナが「美道研究家・HIROKO」になるまで…「オンリーワンがない」と悩んだことも

芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2024.07.28 06:00 最終更新日:2024.07.28 06:00

元フジ・高木広子さん 落ち着いた報道アナが「美道研究家・HIROKO」になるまで…「オンリーワンがない」と悩んだことも

「飛び回ってるのが好きなんです」とHIROKOさん

 

「女子アナ黄金期」といわれた1990~2000年代に注目を集めながら、“消費”されることに抗った人気アナウンサーたち。新たな場所でも全力疾走し、キラリと輝いていた!

 

「同期の(菊間)千乃ちゃんは子供のころからアナウンサーになることが夢だったそうですが、私は小学生のころの夢はケーキ屋さん(笑)。ただ今思い返すと、保健委員長をやっていたときに、校内放送でしゃべる機会があったんです。手を洗いましょう、爪を切りましょうみたいな、それが楽しかったんですよね」

 

 

 フジテレビの報道を支えたHIROKO(高木広子)さんは、もともとはアナウンサー志望ではなかったという。

 

「高校時代には、電車の車内アナウンスや高校野球のウグイス嬢、新幹線の車内販売にも憧れました。なかでも、CAは別格。飛行機ってしょっちゅう乗れるものではないですし、いとこがCAだったことも影響されました。機内アナウンスのまねも、よくやっていました」

 

 しかし、当時は就職氷河期真っ只中。航空会社は採用ゼロだった。

 

「慌てて80社くらい資料の取り寄せをしました。当時は分厚い本で調べて、はがきを送っていましたね。当初はサービス業を中心に、就職活動しようと思っていたんです。家庭教師やケーキ屋さんのアルバイトをしていましたし、人と接して喜んでもらえるのが楽しかったんです。このころ、いとこの結婚式に感動して、ドラマ『HOTEL』(TBS系)にも感化されました。一生、人の記憶に残るような、“究極のサービス業”をやりたいって思ったときに、ふとアナウンサーもそうだなって。仮に一流ホテルに就職できたとしても、一生来られない人が多いのに、テレビは一回の感動値は低くても、毎日、たくさんの方が観てくださる。掛け算すれば、すごい感動を届けられるじゃないですか」

 

 と、最初に受けたフジテレビにあっさり内定。1995年に入社する。

 

「アナウンサーなんて受かると思ってないから、ヘンな力みがなかったんでしょうね。自然体過ぎて、おもしろがられたのかな? でも、いざ入社してみると、ぜんぜんしゃべれませんでした。千乃ちゃんは『発掘!あるある大辞典』でヒロミさんや堺正章さんと共演していて、さんまさんの番組でもレギュラー。私は何もなくて、ニュースのお天気レポーターくらいでした。スケジュールが空いているから、地方出張も多かったですね」

 

 深夜放送の『めちゃ×2モテたいッ!』(『めちゃ×2イケてるッ!』の前身番組)や、初期の『K-1 GRAND PRIX』でもレポーターを経験。入社2年めに情報番組『ビッグトゥデイ』のアシスタント司会に選ばれてからは、出演時間が増えてきた。

 

「最初は料理研究家・栗原恵さんのお料理コーナーを担当させていただいて、寺田理恵子さんと交代で、司会を2年半くらい。その後、1998年に出産しました。一年間の出産休暇と、そのあとに育児時短を取得したのは、アナウンサーとして局で初めてでした」

 

 それまでは、寿退社が当たり前だった。

 

「前例がないなか、人事に自ら掛けあって実現したのは、自信に繋がりました。私だけ、ほかのアナウンサーと勤務表が違い、『とくダネ!』に“主婦目線が欲しい”と呼ばれて、1コーナー担当したりしていましたが、16時までの時短勤務だったんですよ。迷惑をかけてしまわないか心配でしたが、会社は徹底して対応してくれ、収録途中やロケでも早く帰らせていただいていました。今でも感謝しています」

 

 女子アナブームのなか、HIROKOさんは居心地の悪い思いもしていたという。

 

「現場でつらかったのは、新人のころは女子アナブームで、現場で『もっと弾けて!』って言われるんです。頑張っても、『もっともっと!』って。先輩の近藤サトさんは『私なんて一年めから“ベテラン(に見える)”って言われてたから。最初は“キャピキャピ”を求められて辛いけど、来年は新人が入ってきて、ラクになるよ』って言ってくださいました。私には華やかな個性はないし、性格的にもアイドルっぽく振る舞うのは苦手でした」

 

 そんなHIROKOさんのアナウンサー人生を支えたのが、出産だった。

 

「私はニュース、報道のほうに進んで、わりと落ち着いたキャリアを続けていました。結婚もね、逃げじゃないけど『アイドルにはなれないな』っていう思いもあったから。自分に“オンリーワン”がないという不安、この世界は自分の居場所じゃないんじゃないか、という思いはずっとありましたね。結婚して出産したことで、娘にとって私はオンリーワンですから、家族ができて精神的に落ち着いて、ちょうどいい感じになれたと思います。だから、そこからアナウンサーという仕事が続いたというか、楽しめるようになったんです」

 

 その後はニューヨーク支局に単身赴任したり、社内ベンチャーのウエディング会社Storia(ストーリア)に応募して、ウエディングプロデューサーとして兼務出向したりし、さまざまな経験を積んだ。

 

「……どうやら、なにかやってないとダメな性格みたいなんです(笑)。アナウンサー以外の仕事もいろいろ経験したことが、独立のきっかけになったんだと思います」

 

 2011年にフジテレビを退社。化粧品会社「メリー・マリー」を立ち上げる。

 

「ネットも台頭してきて、時代のうねりをすごく感じていました。しかし結局、30代は会社に残りました。次に、40代をどうしようと思ったときに、このまま会社にいても、輝いてる自分の未来を描けなかったんです。それは私の力不足だし、日本特有の『女性は若いほうがいい』という文化もある。私はもともと肌が弱くて、スキンケアが大変なんです。そのために関心のあった健康や美容をライフワークにしようと決めたんです」

 

 化粧品会社を立ち上げたものの、業界に何のツテもなかった。

 

「無謀すぎるって言われましたね(笑)。自分が欲しいもの、敏感肌に寄り添うものを作ったんですけど、マスコミに取り上げてもらうのは大変でした。『いいものを作れば売れる』という理想を追いかけたんですが、不勉強で甘かったですね。いろいろあって、一回会社を畳んで、今は個人事業主として美容と健康に関するオンラインサロンを開いたり、美容サイトで記事を書いたりしています。意外と毎日忙しいですよ。飛び回ってるのが好きなんです」

 

「美道研究家」という独自の肩書で活躍するHIROKOさん。10年に再婚した夫は21歳年上だ。

 

「今、73歳なんですけど、元気ですね(笑)。バツイチになってからは、すごく結婚したい時期と、一生結婚ダメかも、向かないのかもと悩む時期が交互にありました。フラットなときにたまたま出会って、一緒に生活するにはいいなって方だったんですよね。気を使わない、カッコよく見せようとかそういうのがない人だったんです。向こうも離婚を経験して、一人暮らしも長くて。お互い自立した感じで暮らしています。娘はもう25歳で、学校の先生になっています」

 

 自分のペースで暮らせるようになった今、HIROKOさんにはある思いが芽生え始めた。

 

「アナウンス業務は封印してしまっていましたが、やっぱり嫌いじゃないなと思うようになったんです。自分で話して配信したり、ナレーションの仕事をやったりしていきたいなと思っています。私も50歳を過ぎましたし、今まで吸収してきたものを幹にして、さらに枝葉を伸ばしながら、60歳を迎えたいと思っています!」

 

ひろこ

1972年生まれ 兵庫県出身 日本女子大学卒業後、1995年にフジテレビ入社。2011年に退社後、化粧品の販売、企画会社を立ち上げたあと、現在はHIROKO名義で「美道研究家」として活動している

 

写真・久保貴弘

( 週刊FLASH 2024年8月6日号 )

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