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「落語界の上下関係」に学ぶ会社員人生の勝ち方エッセンス
芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2019.10.12 16:00 最終更新日:2019.10.12 16:00
修業中の「前座」に人権はない−−。パワハラが糾弾される現代社会にあって、厳しい教育システムが価値観を支える世界がある。落語界だ。
「当事者としては、『これほど、世間のイメージと実態がかけ離れているのも珍しいな』と思っています。そもそも、“落語界の前座修業ルール” などというものは存在せず、『弟子入りした師匠が決めたこと』がルールになります。
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たとえば、世間ではよく『前座修業中は、酒・たばこ・ギャンブル禁止』と言われていますが、お酒が好きな師匠には『酒の相手が出来るほうがいい』という方もいらっしゃいます。
また、『前座は毎朝かならず師匠の自宅へ通って掃除をする』というのも違います。なかには、『私の世話をするはずの時間を、映画や公演を見に行ったり、すべて芸事のために使いなさい』という師匠もいらっしゃいますよ」
こう語るのは、鬼才・立川談志が独自に築いた「落語立川流」に、女性として初めて入門した立川こはる(37、二ツ目)。彼女自身の前座修業は、険しい道のりだった。
「私はもともとネガティブ思考ですが、初めは誰もが、どこの仕事場でも “想定外のこと” で怒られますので、『自分はできないヤツなんだ』というコンプレックスの塊になります。
でもそのうち、経験によって『想定』が増え、対処できることも増えていきます。そうすると今度は、シミュレーションと自己採点を繰り返すようになるんです。うっかり “地雷” を踏んで傷つかないように、自己防衛機能をインストールするという(笑)」
前座時代のこはるには、自分を追い詰めすぎたがゆえの、こんなエピソードがある。NHK朝ドラ『なつぞら』に出演して話題になった、超人気落語家・柳家喬太郎の楽屋についたときのことだ。
「喬太郎師匠が楽屋入りされてからの、自己採点のマイナスの積み上がりにいたたまれなくなり、『至らず申し訳ございません』とお詫びをしました。
すると、喬太郎師匠は『え、なにが?』と、キョトンとした顔をされていて(笑)。いまでは笑い話ですが、当時はそれぐらい、ミスに敏感になっていたんです」
サラリーマン社会でも、新入社員は「失敗して怒られて」を繰り返すのが常だ。落語界では「しくじり」とよばれる、新人時代の失敗とは、どのようなものなのか。
「前座時代は、現場にいらっしゃる『真打ち』の師匠方の、身の回りのお世話をさせていただくのが一番の仕事です。しくじりには、たとえば、このようなものがあります。
『着物をたたむときに、へんなシワをつけた』
『着物に汗をたらした』
『集合時間より早くこない』
『邪魔なところに立っている』
『肝心なときにいない』
こういった動きのミスに加えて、『仕事してるアピールがすぎる』といった態度のことまで、いろんな方からお叱りをいただきます。ちなみに私も、散々やらかしてきました……」
一方、「基本のやり方」を覚えると、失敗の幅が広がる側面も。
「たとえば、お茶出しには “マニュアル” がありまして、『師匠方が楽屋に入られたとき』『お着替えをされて高座に上がられる前』『出番が済んで着替え終わったら』の3回お出しましょう、というものです。教えられれば、これはできますよね。
ところが、途中で師匠方がお弁当を食べ始められたときに、『マニュアルにないのでお茶出しをしない』という、しくじりパターンがよくあります。前座経験が浅いうちは、『とにかく決まりごとを守ろう』と、頭を固くしがちなものなんです。
そして、ひと通りの基礎が身につくと、一度『自分、出来てる』という心境に達するのですが、これが勘違い(笑)。その一歩先から、本当の前座修業が始まります」
「絶対の正解はない」と理解することが、スタートラインだった。
「着物のたたみ方ひとつとっても、相手によって方法がまったく違いまして。ですから、初めてご一緒することがわかった時点で、その人についての情報を、顔見知りの先輩や前座仲間に片っ端から聞いて回ることが、仕事の始まりです。
でもじつは、なにも情報がないまま現場入りすることのほうが多いんですよ(苦笑)。ですから、着物のたたみ方なら最終的には、着付けのお手伝いをするときに着物を開きながら、わずかな時間で必死に『折り目』を記憶します」
しかし、その “攻略法” も完璧ではなかった。
「とある他流派の師匠と、ご一緒したときのことです。記憶した折り目どおりに着物をたたんでお渡ししたところ、『ありがとうね』と、微笑みながら受け取ってくださいました。
『なんとかなった!』とひと安心したのもつかの間、フッとその師匠を見ると、着物をご自分でたたみ直されていたんです。そのときのショックは、いまだに忘れられません」