●上下関係に困ったら「自分をなくせ」勝手に“気が働く”まで
立川流は、家元・談志が落語協会を脱退したため、毎日落語会が開かれている、いわゆる「寄席」に出入りができない。そのため、こはるには、「前座仕事をする機会も得られる情報も、他流派の前座に比べて圧倒的に少ない」という負い目があった。
さらに落語界では、仕事をして何も言われなければ、一応「セーフ」ではありながら、正しかったかどうかはわからない。答えの見えない暗闇で不安なまま、彼女は試行錯誤を重ねていった。そしてあるとき、ふと気がついた。
「前座修業は、『師匠方が楽屋に入られてから、快適な時間と空間を完成させ、スムーズに高座に上がっていただくことだ』という、ゴールが見えたんです。
それを達成するためには、『この人は、いまこう思っているはず』と予測していくわけですが、精度を高めようと思案をめぐらせると、自分がその日の師匠方の視点に同化していくような感覚になります。“気を遣う” のではなく、“気が働く” 状態ですね。
その状態になると、先ほどのお弁当のシーンでも、お茶を出しながら『こちらの味噌汁もめしあがりますか?』と言えます。さらに同化がもう一歩進むと、『高座でけっこう汗をかかれているな。冷蔵庫でおしぼりを冷やしておこう』という先回りもできるようになってくる。
前座になりたての頃に、『修業中は自分をなくせ』と、あちこちで教わりましたが、私はこの段階になって、初めてその意味がわかりました。怒られてヘコんだり、何も文句を言われないことに喜んだり、この師匠は苦手などと思っているうちは、まだ『自分』が存在しているのだと」
誰を相手にしても奉仕に徹する彼女は、「二ツ目」になっても、その細やかな仕事ぶりで活動の場を広げている。現在まで奉仕精神が続いているのは、彼女の営業スタイルが深くかかわっていた。
「芸能事務所に所属していませんので、私が自分で主催する独演会についてはチケットの予約受付けや会場設営、ご登録いただいたファンの方々への宣伝チラシの配送サービスなど、裏方仕事もすべて自分でやっています。
ひとりで回しきれない作業は、一門の前座さんやバイトさんにお願いしていますが、お客様には基本的に私が対応しています。馴染みの方から、『空調が寒すぎるの』『前の人がうるさいんだけど』といった声をお聞きすると、運営スタッフがいても『なんとかしなきゃ』と動いてしまうんです……」
こはるの事務作業や会場設営を手伝うバイトスタッフは、大学で所属していた落語研究会の後輩たちだ。頼りにしているメンバーが学生を卒業するたびに代替わりしていき、“こはるボーイズ(ガールズ)” が脈々と受け継がれている。
現場では、チラシの折り込み、高座の組み立て、客席の位置調整などの作業を各員に振り分けながら、自身が率先して作業を進める彼女。その姿はまるで、プレイングマネージャーである。
落語家を志して以来、厳しい道を歩み続けてきたこはる。みずから苦労を買ってきた彼女の経験には、サラリーマンなら一度は悩まされる上下関係をうまく乗り越え、「人生に勝つ」ためのエッセンスが満載だ。
ところで、いまだにどこへ行っても “気が働いて” しまう落語家生活は、つらくないのだろうか。
「前座修行中もいまも、自分の面倒な性格のお陰で気苦労は絶えませんし、理不尽なことも多くて、答えのない日々です。でもそれは、会社にお勤めの方も同じですよね。
ただ、上下関係の厳しい落語界ならではの恩恵もあります。その代表が、打ち上げ。落語家同士の飲み会は、顔ぶれにかかわらず、年次によって座る場所と注文係がオートで決まります。ですから、ひと仕事終えたあとは一切迷いなく最短で、大好きなビールにありつけるんです(笑)」
たてかわこはる
1982年10月生まれ 東京都出身 落語立川流所属の落語家。2006年、東京農工大学大学院を中退し、立川談春に入門。2012年6月、二ツ目昇進。現在は年間230本超の高座に出演。2016年にアニメ『昭和元禄落語心中』(TBS系)で声優デビュー。以降、『まる得マガジン』(Eテレ)、『BS笑点』(BS日テレ)とテレビ出演が続く。『セブンルール』(フジテレビ系)の2019年7月23日放送回で取り上げられ、独演会は満員に。10月21日に収録がおこなわれる『NHK新人落語大賞』の本選に、2017年に続き2回めとなる出場が決定
※11月22日に「横浜にぎわい座 小ホール のげシャーレ」、12月15日に「新宿文化センター 小ホール」で定期独演会を開催。予約・最新情報はツイッター(@koharunokai)と公式ホームページにて