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米国で「ミスター・トルネード」藤田博士の業績に感嘆の声

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2020.05.22 16:00 最終更新日:2020.05.22 16:14

米国で「ミスター・トルネード」藤田博士の業績に感嘆の声

叙勲時の藤田夫妻(写真:AP/アフロ)

 

 アメリカにはPBSという公共放送局がある。日本でお馴染みの『セサミストリート』をはじめ、教育・教養番組やニュースなどを放送している、広告のない無料の放送局だ。

 

 この権威あるPBSが、いま『アメリカン・エクスペリエンス』という歴史的事件や人々を紹介するドキュメンタリーシリーズを放送中だ。これまでジョージ・ブッシュ元大統領やマーティン・ルーサー・キング牧師などが紹介されているのだが、そこに先日、1人の日本人が取り上げられた。

 

 

 番組のタイトルは「ミスター・トルネード」、気象学の権威、藤田哲也博士である。
 藤田博士は竜巻の強さを6段階に分ける「フジタ・スケール」を考案したことで、世界中の気象学者に広く知られた人物である。番組では彼が何千もの命を救ったとし、彼をよく知る人たちの証言や数々の資料などを交え、その偉大さを紹介した。

 

 1920年、九州で生まれた藤田博士は、1947年、脊振山(福岡県と佐賀県の県境)の測候所で、雷雲の下にまだ知られていない「下降気流」があるのではないかと検証していた。たまたま関連するアメリカの論文を見つけ、著者に自身の研究内容を送ったことがきっかけで、シカゴ大学に招聘された。

 
 藤田博士には、長崎に原爆が投下された直後に現地入りして、樹木などの倒れ方や焦げ方から衝撃波を推測し、グラウンド・ゼロ地点の爆発高度を計算した功績がある。渡米した年には、台風研究で東大から博士号を取得していた。33歳で、アメリカ行きの飛行機に乗ったのだが、このとき、離陸から着陸直前まで雲の様子を観察し、のちに丁寧な太平洋上の雲の立体図を作成している。

 

 気象予報士の白戸京子さんがこう話す。

 

「藤田博士は、渡米直後は、あんまり英語が上手ではなかったそうです。終戦直後で日本人への風当たりは強く、言葉の代わりに紙とペンで逆境を乗り越えていきました。博士の名声を高めたのは、37歳のときにノースダコタ州で起きた竜巻の検証でした」

 

 竜巻に関する深い知識がなかった時代、藤田博士はすぐさま現地入りし、被災直後の人たちに聞き取り調査をおこない、多数の証言と写真を収集した。集められた200枚近い写真と53カ所から見た竜巻の証言など、すべてを一枚の図面につなぎ合わせて真相解明に努めた。このとき博士が使った雲の名前「ウォール・クラウド(壁雲)」などは、いまでも世界中で使われている専門用語だという。

 

 その後、竜巻はただ1つの渦巻ではなく、大きな渦の中に小さな渦がいくつか含まれ、親子のように存在する構造だと主張。学界から激しい反論にあうが、後に正しさが立証される。51歳のとき、歴史に残る「フジタ・スケール(通称Fスケール)」を発表した。

 

 さらに3年後、スーパー・アウトブレイクと呼ばれる最大規模のトルネードをイリノイ州で検証し、ミスター・トルネードとしての地位を築いた。

 

「藤田博士の功績はこれだけではありません。『マイクロバースト』と呼ばれる急速な下降流を解明したことで、晴天時に突然飛行機が墜落する原因を明らかにしたのです。1975年にニューヨークで起きた飛行機事故を検証し、発生過程を詳細に説明。のちにドップラーレーダーでこの下降流を観測できるようになり、いまではどの空港にもレーダーが配備されるようになりました。1990年代からマイクロバーストへの警告システムができ上がり、1994年以降は乗客の死亡事故がなくなりました」(白戸さん)

 

 竜巻の権威として知られる藤田博士だが、アメリカで実物の竜巻を初めて見たのは61歳のときだった。それまでは、理論だけで検証を続けたことになる。博士は、69歳でフランス国立航空宇宙アカデミー賞の金メダルを、71歳で日本の勲二等瑞宝章を受章している。

 

「フジタ・スケールは、日本の気象庁で2016年まで、NOAA(米海洋大気庁)で2007年まで使われました。晩年は糖尿病に悩まされ、入院先では自分の痛みをわかりやすく図解した『フジタ・ペイン・スケール』という痛みの段階表まで作ってしまったそうです」(白戸さん)

 

 番組が放送されると、SNSはもちろん『フォーブス』など数多くのメディアで感嘆の声が流れた。実際、藤田博士の研究によって、救われた命は数えきれない。日本人には知られていない大人物なのだ。

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