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陸軍の秘密組織【秋丸機関】が予言した「ニッポン敗北」
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2016.08.14 15:00 最終更新日:2016.08.19 17:32
その日、ハワイ・オアフ島は日曜日だった。1941年(昭和16年)12月7日早朝(日本時間12月8日)、連合艦隊の空母「赤城」「加賀」などから飛びたった第1次攻撃隊は真珠湾上空に到達し、一斉に爆撃を開始した。
このとき流された暗号電文が「トラ・トラ・トラ」だ。ワレ奇襲ニ成功セリ──日本とアメリカが開戦した瞬間である。
「半年や1年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば、まったく確信は持てぬ」
開戦前、連合艦隊司令長官の山本五十六は、近衛文麿(このえふみまろ)首相にこう伝えたという。つまり、山本は1年以上アメリカと戦うのは不可能だと知っていた。それはいったいどうしてなのか。五十六の長男である山本義正氏が言う。
「父は若いころ、ハーバード大学に留学していましたが、帰国後もあわせれば6~7年はアメリカにいます。知人も多く、アメリカから持ち帰った資料も膨大でした。
今でも覚えていますが、父の本棚の半分以上がアメリカの歴史書でした。父は誰よりもアメリカという国の国力を知っていたんです。それも、石油資源や工業力だけでなく、教育、政治思想までじつに詳しく調べていた。だから、開戦直前まで反対しつづけたんですね」
山本五十六はアメリカをよく知っていたからこそ、戦争は無茶だと理解していたのだ。
だが、じつは敗北を予言していたのは山本だけではなかった。
《12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本に勝機はない。戦争は長期戦になり、終局、ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない》
これは真珠湾攻撃の3カ月前、政府の「総力戦研究所」が出した「日本必敗」の結論である。驚くべきことに、この予測は、現実の戦局推移とほぼ同じ流れをたどっていた。
総力戦研究所は昭和15年秋に開所した内閣総理大臣直轄の研究所である。第一期研究生は、官僚27名と民間人8名の総勢35名で構成されていた。
そして、日米戦争を想定した「総力戦机上演習」(シミュレーション)が実施され、「日本必敗」の結論が8月27、28日両日に近衛文麿首相や東條英機陸軍大臣以下、関係者に報告された。
この事実を明らかにしたのが、作家で東京都副知事の猪瀬直樹氏だ。猪瀬氏の著書『昭和16年夏の敗戦』には、報告を聞いた東條英機の言葉が書き記されている。
「戦というものは、計画通りにいかない。意外裡(り)なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素としたものをば考慮したものではないのであります」
こうして報告は黙殺された。すでにアメリカは実質的に日本への石油輸出を禁止していた。ではどうすればいいのか。
「ならばインドネシアを占領して石油を確保しよう」という安易な結論だった。猪瀬氏が言う。
「このままだと石油のストックは2年間で底をつくと数字で示されていた。しかし、南方の油田を占領すれば、石油は残るという報告ができあがってきた。目的ありきのたんなるつじつま合わせの数字ですが、結果的に日米開戦反対派の根拠は消滅していくんです」
こうして、“なんとなく”日米開戦が始まったと猪瀬氏は言うのだ。
●政府だけでなく、陸軍でも「必敗」が予言されていた
総力戦研究所とほぼ同じころ、やはり「日本に勝ち目はない」と報告した研究機関があった。昭和14年に陸軍内部に密かに作られた経済謀略組織「秋丸機関」である。
陸軍の秋丸次朗中佐が首班となって、日・英・米・独・ソの各国の経済力の調査をおこなった。昭和16年7月ごろに基礎調査ができあがり、まもなく陸軍省首脳に対する説明会が開かれた。
戦後、秋丸自身が書き記した著書『秋丸機関の顛末』によれば、説明の内容は以下のとおりである。
「英米と戦う場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能である。だが、それ以後は日本の経済戦力は耐えられない」
こちらも必敗という結果だった。だが、報告を聞いた杉山 元・参謀総長は冷徹に言った。
「この報告の調査と推論の方法はおおむね完璧だと思う。しかしその結論は国策に反するから、報告書は全部直ちに焼却せよ」
やはりここでもシミュレーションの結果は無視されてしまったのだ。
じつは、命令どおりすべて焼却されたと思われた秋丸機関の報告書は、現在1部だけ東大経済学部図書館に残されている。英米班の主査だった故・有沢広巳東大教授が、密かに隠し持っていたのだ。結論部分は「判決」というタイトルなのだが、それは日本への死刑判決そのものだった。
1992年に死去した秋丸次朗に代わり、息子の秋丸信夫氏がこう振り返る。
「生前、父に『もっと要領よく立ち回って、御用学者でも集めればよかったのに』と意地悪な質問をしたことがありますが、父は『日本には戦争経済という概念がなかった。学問的に確立する必要があった。そのために新進気鋭の学者を起用したのだ』と生まじめに答えていました。几帳面な性格そのままに、軍務として忠実に任務を果たしただけだったのでしょう」
その結論が「経済力で英米に太刀打ちできない」というものだったが、前述のとおり、この結論は黙殺され、歴史の闇に消えた。
だが、軍人たちも、じつは明確な戦争遂行の意思があったわけではないと猪瀬氏が言う。
「じつは東條英機は、日米開戦を阻止する天皇の意を汲んで首相になったんです。開戦を避けるために陸軍のトップを首相にすえる。いわば“虎穴に入らずんば、虎児を得ず”ですね。
ところが、戦争をするのかしないのか、いつまでも議論ばかりが堂々めぐりで、結局、戦争に突入してしまう。つまり、東條は軍人というよりも典型的な官僚で、自分では何も決めることができなかった。
明治のころは薩長のコネ社会だったのが、だんだん試験で点を取れば偉くなれる時代になっていった。そうなると、コツコツやる奴ばかりが重用されるようになる。
要は、みんな保身ばかりに走って、大きな決断は誰もできない。だから開戦という国家最大の決断でさえ、誰かが決めることなく、“いつの間にか”戦争になってしまったんです」
(週刊FLASH 2011年12月20日号)