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日本人画家で最高のプレイボーイは、文句なしに「東郷青児」

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.02.07 16:00 最終更新日:2021.02.07 16:00

日本人画家で最高のプレイボーイは、文句なしに「東郷青児」

写真:時事通信

 

 東郷青児(1897~1978)は、難しい。評価も難しい。買うのも難しい。高度成長期の昭和を代表する画家として知られ、「二科会のドン」と呼ばれた男だった。美男子で、育ちもよく、プレイボーイ。

 

 もともと母方は、薩摩藩士時代から代々クリスチャンであり、姉が聖母像などを描いていたことから、絵画に興味を持ったそうだ。ミッションスクールに通い、青山学院に通っていたことから、自ら「青児」と名付けた。若い頃の写真を見ると、まるでジャニーズのタレントのような美しさだ。

 

 

 そして、東郷青児は「なんでも屋」だ。絵画だけでなく、本の装丁、喫茶店のマッチ、包装紙、化粧品のパッケージ、漫画まで手がけた。

 

 作品の数も多く、晩年は、作品を弟子に描かせていたとも言われている。そのため、鑑定も非常に難しい。時代の空気に敏感に呼応し、カメレオンのようにタッチを変化させた。

 

 初期の未来派風からはじまり、雑誌の表紙ではイラストレーションのような軽いタッチで描いた。それでも、キュビスム的要素を残し、一枚の絵画として成立するクオリティで描き続けた。

 

 東郷の人生で興味深いのは、過激な女性関係だ。あまりにいろいろなことがあるので、あるトークイベントの時に、「東郷青児人生すごろく」を使って解説した。もちろん、これは僕が勝手に作った人生ゲームのようなすごろくだが、なかなか好評だった。

 

 東郷青児伝説として最も有名なのは、17歳の青児が、憧れていた竹久夢二の店「港屋」に入り浸って作品の写しのアルバイトをしていた頃のエピソードだ。

 

 夢二が留守にしている間、妻のたまきとこっそり寝ていた青児。ある日、1日早く帰ってきた夢二に見つかり、バットで殴りかかられたのをかわし、裸足で銀座を走って逃げたという話だ。どうやら本当にあったことらしいが、夢二をリスペクトし、いつか超えようとした野心家の青児らしい行動だったとも言える。

 

 ちなみに、青児が最初に結婚した相手は資産家の次女、永野明代だ。「逆玉の輿婚」と言えるだろう。青児は、妊娠中の明代を残してパリに渡ってしまう。渡航費用には、義父の遺産を使ったようだ。

 

 帰国した時には、子供が3人いたが、新しい恋人である19歳の盈子(みつこ)と出会ってしまう。盈子は、海軍少将の娘でクリスチャンだった。もちろん、ふたりは彼女の父親によって引き離されてしまった。

 

 さらに青児は、英語塾を卒業したばかりで大富豪令嬢の中村修子と出会う。そして、お金に目がくらんだのか、二重結婚を試みた。「そんなバカな」と思うかもしれないが、実際に青児は、中村修子と結婚式を挙げてしまうのだ。

 

 その後、なぜか舞い戻ってきた盈子と無理心中事件を起こす。なんとナイフで首を切り、ガス自殺を図ったのだ。

 

 しかし、たまたま発見が早く、ふたりの命は助かった。さらに驚きなのは、その事件の取材に来た小説家、宇野千代と意気投合し、どういうわけか同居をはじめてしまう。青児は家計を宇野の稼ぎにまかせて、ヒモのような暮らしを続けた。

 

 まるで結婚詐欺師のような男なのだが、なぜかいい作品を次々と発表していく。5年後には、宇野との結婚生活にも終止符を打ち、元の恋人、盈子と再び結婚することとなった。

 

 あまりに、複雑で、壮絶すぎる人間関係にめまいがするが、これはこれで、興味深い人生だ。

 

 

 以上、ナカムラクニオ氏の新刊『洋画家の美術史』(光文社新書)をもとに再構成しました。有名なのに実はよく知らない日本の洋画。16人の波瀾万丈な一生を追いかけながら、作品と近代美術史の流れを解説します。

 

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