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【4月12日の話】日本初の超高層・霞が関ビルが完成…耐震研究の成果が結実

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.04.12 06:00 最終更新日:2021.04.12 15:13

 

【4月12日の話】日本初の超高層・霞が関ビルが完成…耐震研究の成果が結実

竣工時の霞が関ビル(1968年)

 

 1968年4月12日、日本で初めての本格的な超高層ビルとされる、霞が関ビルディングが完成した。高さは147mで、三井不動産と山下設計が設計を担当した。

 

 日本が高度経済成長期を迎えていた1950年代、ビルの高さは最大31mに制限されていた。当時で一番高いビルは、例外措置として建設された65mの国会議事堂。しかしその後、ある計画をきっかけに、法改正がおこなわれる。実は、霞が関ビルが建設される以前、違う場所でも超高層化が計画されていたのだ。

 

 

 都市計画を専門とする、東洋大学理工学部建築学科准教授の大澤昭彦さんは、こう語る。

 

「1958年に、『新幹線の生みの親』とも言われる国鉄総裁・十河信二が、東京駅の超高層化を発表します。赤レンガの駅舎を立て替えて、24階建ての高層ビルにするという、日本で初めての試みでした。

 

 当時の建設技術が不十分だったことから、武藤清という建築構造学者を中心に、約3年をかけて超高層を実現するための研究が進みます。

 

 地震大国である日本での超高層ビルは無謀だとされていましたが、武藤たちが注目したのは、過去に地震で倒壊した例がないとされる『五重塔』でした。あえて建物を揺らすことで、地震の揺れを吸収する『柔構造』を発見したことで、日本でも超高層ビルの建設が可能だと確かめたんです」

 

 研究結果が出たことから、法制度も見直しが行われた。1962年8月には、当時の建設大臣である河野一郎が、高さ制限の見直しを指示。翌年には建築基準法が改正され、東京の一部で制限の撤廃が決まる。ちなみに、河野一郎は、現在のワクチン担当大臣である河野太郎の祖父にあたる。

 

 法改正の結果、1964年には、国会議事堂を抜いて当時最も高いとされた73.2mのホテルニューオータニが誕生。その4年後、初の本格的な超高層ビルである霞が関ビルが完成する。

 

工事中の霞が関ビル(1967年)

 

「国鉄総裁が退任したこともあり、東京駅の超高層化計画は頓挫してしまいました。しかし、柔構造の理論はそのまま、霞が関ビル建設に活かされます。武藤は霞が関ビルのプロジェクトで、中心的な役割を果たしました。

 

 また、霞が関ビルの大きな特徴の一つは広場にあります。それまで31mという制限があったため、建物の形は横に広がっていく傾向にありました。床をたくさん作って、テナントを入れた方が儲かりますから。

 

 しかし、超高層ビルであれば縦に伸ばせるので、横に広げる必要がなくなります。その結果、敷地内に広場を作るという発想に至ったんです。都市の在り方を明確に示した、最初のビルだと言えるでしょう。

 

 以前、霞が関ビルの建設に携わった方に話を聞く機会があったのですが、『広場の作りには多くの反省点がある』と仰っていました。どうしても、建物自体の建設に人を割かねばならず、広場を十分に居心地のいいものにできなかったと。

 

 その反省を生かして作られたのが、新宿にある三井ビルだそうです。『サンクンガーデン』と呼ばれる半地下の広場を作り、適度に囲まれたような感覚を持たせることで、居心地のいい空間を作り出しています」

 

 地震の多い日本において、耐震技術の研究を進めた武藤の功績は大きい。

 

「今でこそ免震構造や制震構造など、さまざまな技術が出てきていますが、どれも武藤の柔構造理論があった上で、それをよりよいものにするにはどうすればいいか、という考えから生まれたものです。現在一般的になっている、あらゆる耐震技術のベースを作った人だと言えるでしょう」(大澤さん)

 

写真提供・三井不動産

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