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【4月13日の話】初の喫茶店「可否茶館」を開いた男、「鹿鳴館を超えろ!」の夢
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.04.13 06:00 最終更新日:2021.04.13 06:00
1888年(明治21年)4月13日、実業家の鄭永慶(ていえいけい)によって、東京・上野に日本初となる本格的な喫茶店「可否茶館」がオープンした。
現在の喫茶店のような、テーブルと椅子が並び、客たちがコーヒーを楽しむ場だったのかというと、実はそうではない。可否茶館は2階建ての洋館で、もちろんコーヒーが主眼だったが、トランプや将棋、各種新聞を取り揃え、さらにはビリヤードにシャワー室まである、たいへん盛りだくさんな店だった。
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珈琲文化研究会を主宰し、可否茶館跡地に記念碑を建てた星田宏司さんに、開業の経緯について話を聞いた。
「お店を作った鄭永慶さんは、祖先は中国人だった関係もあって、代々長崎で中国語の通訳を務めた家柄に育ちました。父親の鄭永寧は、明治政府ができてからは語学の才を買われ、外務省に登用されています。
父親が代理公使として北京に在留している間、息子である永慶も語学を学び、1874年(明治7年)にはアメリカのイェール大学へ留学しました。しかし不運なことに、腎臓病を患ってしまい、道半ばで帰国するんです」
帰国後は外務省で勤務するが、学位を持っていないことから出世は望めなかった。鄭はその後、外務省をやめ、岡山の師範学校(現・岡山大学)で教鞭をとる。だが、出世をあきらめきれず、東京に戻って大蔵省に勤めるものの、これも5年ほどでやめてしまう。
「可否茶館となる洋館を建て始めたのは、その後です。本当は学校を開きたかったようですが、莫大な資金が要るため、断念したもようです。
ちょうどその頃、欧化政策の一環で鹿鳴館ができたのですが、一部の上流階級しか利用できないうえ、悪い文化に染まる人間もおり、スキャンダルも多かった。
鄭は、留学時代の同級生たちが乱痴気騒ぎに興じているのが我慢ならなかったようで、『あんな表面だけの欧化主義とは違う、若い世代のための社交サロンを開きたい』と考え、可否茶館の開店に至ったと、記録に残っています。
若者の社交場を目指していたからこそ、いろいろ取り揃えたということです。洋館の2階では、尾崎紅葉の一派が演劇をおこなうこともあり、サロンとしての機能も果たしていたようです」(星田さん)
コーヒー1杯の値段は1銭5厘。当時のもりそば2杯分の値段で、決して安い値段ではなかった。コーヒーの他にも、一品料理やパン、カステラなどを出しており、洋酒やビールも用意された。東大の近くに建っていたことから、学生たちが店を訪れることも多かったという。
「とはいえ、店の立地がいいわけではなく、訪れる客もだんだんと少なくなったようで、金策に困って4年後には店を閉めてしまいます。
鄭は最後は高利貸しにも手を出し、もう日本にはいられないと、西村鶴吉と名前を変え、シアトルに密航するんです。ですから、鄭のお墓は今もシアトルにあるんですよ」
志はあったが、商売としては難しかった。時代も早かったのだろう。
「それでも、可否茶館の影響は大きく、一般の庶民たちにコーヒーが普及したのは確かです。可否茶館のオープンから2年後には、浅草公園に『ダイヤモンド珈琲店』が開店し、『風月堂喫茶室』や『木村屋パン店の喫茶室』など、昭和の喫茶店ブームへ発展していく基礎が築かれました」(星田さん)
写真・星田宏司『日本最初に喫茶店』(いなほ書房)より