社会・政治社会・政治

【4月25日の話】渋沢栄一が日本女子大の校長に就任…自宅で運動会も

社会・政治 投稿日:2021.04.25 06:00FLASH編集部

【4月25日の話】渋沢栄一が日本女子大の校長に就任…自宅で運動会も

日本女子大

 

 1931年4月25日、実業家の渋沢栄一が、日本女子大学の第3代目校長に就任した。

 

 実業家として、数々の企業を創業したことで知られるが、実は、教育事業との関わりも深い。

 

 一橋大学や東京経済大学、東京女学館の設立に携わっており、日本女子大学設立の際も、創設者・成瀬仁蔵へ2500円(現在にして約1000万円)と多額の寄付をした。成瀬が地方へ募金集めに回ったときも、渋沢がついて行ったという。

 

 

 歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。

 

「渋沢は、『論語と算盤』という自著で、『女性にも男性と同じ国民としての才能や知恵、道徳を与え、ともに助けあっていかなければいけない』という言葉を残しているように、女子教育に熱心な人物でした。

 

 女子に学問が不要だとされている時代に、渋沢は珍しい考え方をする人物だったように思います。渋沢は幕臣としてヨーロッパへ渡航した経験がありますから、海外で女性が活躍する様子を見て、女子教育の必要性を感じたのでしょう」

 

 1896年、大隈重信を介して成瀬と面会した渋沢は、成瀬の女子教育にかける熱意を評価し、日本女子大の創設を全面的に支えることになる。

 

開校式(1901年)

 

 1901年、日本女子大学が開校して早々に、第1回の運動会が開催される。このときは渋沢の邸宅が開放され、学生や教育関係者500人ほどで賑わった。

 

 2回目以降は校庭で実施されるようになったが、日本式バスケットボールがおこなわれるなど次第に盛り上がりを見せ、話題を呼んだという。

 

「1907年には、『晩香寮』と渋沢が自ら命名した寮も寄贈しています。木造2階建ての純洋風の建物で、学生たちは英語やピアノ、キリスト教などについて深く学ぶ機会を得ました。海外からの訪問者たちを接待するときも、よく使用されていたようです」(濱田さん)

 

 校長に就任した同年11月、渋沢は91歳で亡くなった。日本女子大学の学生たちは、12月18日に追悼会をおこない、「私たちのやさしいお祖父様」であった渋沢をしのんだという。

 

写真・『日本女子大学校四十年史』

続きを見る

社会・政治一覧をもっと見る

社会・政治 一覧を見る

今、あなたにおすすめの記事