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さらば江戸幕府…上野公園にいまも残る戦争の跡/5月9日の話

社会・政治 投稿日:2021.05.09 09:40FLASH編集部

さらば江戸幕府…上野公園にいまも残る戦争の跡/5月9日の話


 1876年(明治9年)5月9日、日本初の公園として「上野公園」が開園した。

 

 江戸時代から、寛永寺の敷地として広大な自然を残していた上野の山。花見の名所として、昔から庶民に親しまれてきた。
 しかし、上野公園には今なお、戊辰戦争の爪痕が残されている。歴史学者の濱田浩一郎さんが語る。

 

 

「二代将軍・徳川秀忠から上野の地を与えられた僧・天海は、比叡山延暦寺を江戸に再現しようと考えました。寛永寺に東の叡山(東叡山)との山号が付けられたのはそのことを象徴しています。

 

 寛永寺にある伽藍の一つである清水観音堂も、京都の清水寺を模した造りとなっています。

 

 上野公園には寛永寺が存在していますが、1868年5月15日に起きた、戊辰戦争の戦いの一つである『上野戦争』により、焼け野原となったのです」

 

東叡山寛永寺 開山堂


 江戸時代末期、将軍の座を失った徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いの最中、大坂城から江戸城へ逃げ帰った話は有名だ。その後、慶喜は官軍との交渉を勝海舟らに任せ、寛永寺で謹慎する。

 

「江戸城が明け渡されると、慶喜自身は寛永寺から水戸へ身を移しますが、幕臣たちは『まだ終わらせない』と言わんばかりに、浅草本願寺で彰義隊を結成し、その後、寛永寺に立てこもっています。

 

 慶喜が寛永寺を出てから1カ月後には、大村益次郎率いる新政府軍と彰義隊による上野戦争が起こりますが、装備の差が大きく、戦いは半日で終わりました。しかし、寛永寺のほとんどの伽藍は焼失し、彰義隊士たちの遺体は見せしめのため、しばらく野ざらしにされました」

 

 この戦闘では最新式の銃や砲弾が使用され、上野公園には今もその跡が残っている。

 

 東京国立博物館の真横にある寛永寺輪王殿横には、「旧寛永寺本坊山門」が保管されている。黒々とした門に近づいてみると、あちこちに弾痕が刻まれており、拳1個分よりも広くいびつな穴が空いているところもあった。目視できた限りで、10個以上の痕が見受けられる。

 

 また、上野の森美術館近くにある清水観音堂には、幕末期の最新式火砲で、当時佐賀藩が所有していたアームストロング砲弾が残されていた。

 

清水堂奉納額の脇にある砲弾


 ほかにも、おびただしい数の砲弾痕が残った黒門が、荒川区の円通寺に移され、残されている。かつて、円通寺の住職が彰義隊の遺体を埋葬し、供養した縁から、1907年に移設されたという。

 

「戊辰戦争に勝利した新政府は、富国強兵・殖産興業のスローガンのもと、ドンドン近代化政策を推し進めます。その勧業政策の一つとして博覧会の開催があり、1877年、第1回目の内国勧業博覧会が上野公園で開催されるのです。彰義隊士の血で染まった上野には博物館や動物園も設置され、新たな文化芸術の集積地として生まれ変わるのです」(濱田さん)

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