社会・政治
国民車「スバル360」が作った “軽自動車大国” ニッポン/5月18日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.05.18 06:00 最終更新日:2021.05.18 06:00
1955年5月18日、通産省(当時)自動車課から「国民車育成要綱案」が発表される。要件を満たす国民車の開発に成功すれば、国から製造販売の支援が出るという触れ込みだった。
1950年の朝鮮戦争により自動車特需が舞い込んだことから、業界は活気づいていた。アメリカ軍は日産、トヨタ、いすゞとトラックの購入契約をおこない、その後ベトナム戦争用にも日本から車を買いつけていた。
【関連記事:トヨタの燃料電池車MIRAI「東京五輪カー」1台740万円が400台“雨ざらし”放置】
業界全体が潤い、本格的に乗用車を生産する流れができた段階で、要綱が発表された。
国民車は、現在、毎年180万台ほどが販売されている「軽自動車」につながる規格だ。しかし、公表された要件では定員4人、最高時速100km以上、エンジン排気量350~500cc、販売価格25万円以下など、当時としては非常に厳しいものだった。そのため、自動車メーカーの多くは「この値段では実現不可能だ」と考えていたという。
だが、3年後の1958年3月、富士重工業(現・SUBARU)から「スバル360」が発表される。日本最初の国民車の誕生だ。SUBARU広報に話を聞いた。
「いわゆる「国民車構想」に基づき開発をスタートしたスバル360は、『大人4人がゆったり乗れること』を基本コンセプトにしています。人を中心とした設計思想や軽量化技術など、前身である中島飛行機の航空機技術を詰め込み、1958年3月3日、発表に至りました。
この日の発表会は、予定時間を2時間もオーバーするほど注目を集めました。
販売台数は、1年目は385台、2年目は5870台とうなぎ登りで、1963年には2万台に迫り、軽乗用車のリーディングカーの1つと位置づけられるようになりました。スバル460を含め、1970年に生産終了になるまで、総生産台数は39万2016台にのぼります」(広報担当者)
最終的に国民車構想自体は潰れてしまったが、スバル360以降、鈴木自動車工業(現・スズキ)から「スズライトTL」、東洋工業(現・マツダ)から「マツダ・R360クーペ」、新三菱重工業(現・三菱自動車工業)から「三菱500」が発売され、軽自動車市場は百花繚乱の勢いとなる。
軽自動車の伸びに引っ張られ、1961年にはトヨタの「パプリカ」など小型車も増えていく。国民車構想は、日本に大衆車が根づく大きなきっかけとなったのだ。
写真提供:SUBARU