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日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」で自動車競走…敗れた日産が逆襲へ/6月7日の話

社会・政治 投稿日:2021.06.07 09:09FLASH編集部

日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」で自動車競走…敗れた日産が逆襲へ/6月7日の話

第1回優勝のオオタのゴール

 

 1936年(昭和11年)6月7日、多摩川の河川敷にできた日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」にて、第1回自動車競走大会が開催された。入場料は約1円(現在の4000円程度)で、3万人の観客が会場に詰めかけたという。

 

 自動車を利用したイベント自体は、明治時代からおこなわれていた。1911年には、目黒競馬場で飛行機と自動車が競走した記録が残っている。1914年には、同じく目黒競馬場で自動車同士のレースがおこなわれた。

 

 

 多摩川スピードウェイの会・副会長の小林大樹さんは、国内の自動車レース史についてこう語る。

 

「日本で自動車レースが始まった当初は、あくまで人寄せのためのイベントでしかありませんでした。カップをめぐるような、ある程度本格的なレースが始まるのは、1922年に洲崎の埋立地で開催された『自動車大競走』からでしょう。

 

 この大会は報知新聞社がバックアップし、5万人ほどの観客が集まりました。ただ運営側も慣れていませんから、当日は現場が混乱し、警察が介入する事態となっています。結果、危険防止のため、レースではなくタイムトライアル形式に変更されました。

 

 2回目以降は無事にレースがおこなわれるのですが、当時の日本には常設のサーキットがなく、競馬場や練兵場などあちこちで開催されます。道も悪いですし、雨が降ると泥だらけになってしまい、大会が延期されるケースもありました」

 

 次第に「もっといいコースで走りたい」と、関係者たちの思いも強まっていく。

 

 この頃、アメリカでレースを興行した経験を持ち、自動車大競走の仕掛け人でもあった藤本軍次という男が、報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立する。協会は多摩川河川敷に狙いを定め、所有者である東京横浜電鉄(現・東急電鉄)との交渉に成功し、はれて多摩川スピードウェイが完成した。

 

「1936年の第1回自動車競走大会には、フォード、ブガッティ、ベントレーなどの外国車が多く参加しました。一方で国産小型レース杯もおこなわれており、メーカーとして力を入れていたオオタ自動車工業製のオオタ号が優勝しています。日産自動車のダットサンが勝つものだと思っていた鮎川義介社長は大いに怒り、3カ月後の第2回大会までに勝てるマシンを作りこんで優勝するのですが、肝心のオオタは参加していませんでした。

 

 第1回目には、ホンダの創業者である本田宗一郎さんも『浜松号』で出場していましたが、接触事故によりマシンが横転してリタイアしています。当時はレース専門のドライバーがいる時代ではありませんから、雇われ運転手や、車に精通し修理できる技術屋が乗ることが多かったようです。本田さんも、言ってみればこの頃は修理屋の親父ですからね」

 

 その後、多摩川スピードウェイでの自動車レースは1938年までおこなわれる。しかし、次第に戦争の影が濃くなっていき、ガソリンも配給制となったことで、レースは終了を余儀なくされた。

 

 戦後は公営競技場として使用する計画が浮上し、1949年には「全日本モーター・サイクル選手権」が開催されたが、徐々に立ち消えとなる。以降、大会が開催されることもなく、自動車学校ができるなど、別の用途に使われていった。

 

 現在の多摩川スピードウェイは、野球場として川崎市の野球チームなどが使用する場となった。サーキットはなくなってしまったが、長く続くコンクリート製のスタンドは、今でも当時の姿を保っている。

 

写真・GarageTalk

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