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スリの大親分「仕立屋銀次」警察と持ちつ持たれつの悪人渡世/6月23日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.23 10:30 最終更新日:2021.06.23 10:31

スリの大親分「仕立屋銀次」警察と持ちつ持たれつの悪人渡世/6月23日の話

仕立屋銀次の一味

 

 1909年(明治42年)6月23日、スリの大親分だった仕立屋銀次が逮捕された。本名を富田銀蔵といい、明治の時代、その名を日本中にとどろかせていた。

 

 銀次は、紙屑問屋と銭湯を経営する父のもと、東京・駒込に生まれた。皮肉にも、銀次の父は銀次が7~8歳の頃、刑事になっている。道を踏み外すのは、大人になってからのことだ。

 

 

 13歳で日本橋へ奉公に出た銀次は、利口で機転の利く性格から「銀坊」とかわいがられ、手先の器用さも相まって、和服の仕立て職人として独立する。

 

 だが、妻のいる身ながら弟子の「おくに」と恋仲になり、妾にしたころから、人生が狂い始める。

 

 歴史研究者の濱田浩一郎さんが、こう語る。

 

「明治のなかば、東京で顔を利かせていたスリの親分は、『巾着屋』と『清水の熊』の2人でした。銀次が妾にしたおくには、清水の熊の娘だったのです。

 

 はじめ銀次は仕立屋を続けていたのですが、だんだんと熊の子分たちが出入りするようになりました。面倒見のいい銀次は、彼らの世話をするうち、自身もスリ稼業に手を染めるのです。

 

 銀次は、32歳で熊の跡を継いでスリの親分になります。熊が生きていた頃は巾着屋の縄張りのほうが広かったようですが、銀次が跡目を継いでからは手を広げ、ついに『東京一の大親分・仕立屋の銀次』と呼ばれるようになりました」

 

 銀次は子分たちの指揮を執ることに専念し、自身で手を下すことは一度もなかった。妾のおくには、子分から集まってくる情報や稼ぎを台帳に記録し、銀次に報告する役目を負っていた。

 

 銀次の一味には、汽車のなかにいる紳士を狙って稼ぐ「箱師」が多かった。『仕立屋銀次』(本田一郎、中央公論新社、1994)には、こんな記録が記されている。

 

《×月××日 細目の安
 午前7時から上野、品川の線を使って午前10時、新橋で金マン(金時計)1つ。午前4時、黒門町でナマ30ぱい(現金30円)》

 

《×月××日 黒公
 浅草公園で夜8時、白たま(銀時計)1つ。同10時ナマ20ぱい(現金20円)》

 

 銀次はこれを確認し、稼ぎがよければ機嫌がよくなる。悪いときは「しょうがねえなぁ、ふんどしを締めて稼げと言ってやんな」と吐き捨てたという。

 

 それにしても、なぜ銀次たちは警察に捕まらなかったのか。

 

「当時、まだ組織が未熟だった警察が、銀次の一味と持ちつ持たれつの関係を築いていたんです。

 

 銀次や子分たちは刑事に賄賂を渡し、警察側は返してほしい盗品があれば、銀次のもとへ出向いて返却を要請する。銀次の気が向けば、盗品は警察に郵送されてきたといいます。

 

 それだけでなく、警察はスリのネットワークを使い、バクチ、強盗、サギ犯などの情報を集め、検挙していました」(濱田さん)

 

 だが、明治も後半になると、一転して用済み扱いされ、スリをターゲットにした大規模な捜査が始まる。銀次もついに逮捕され、その後も警察の手入れが続いたことで、スリ団は壊滅してた。

 

「銀次は懲役10年の判決を受けました。それまで、江ノ島に別荘を持つなど巨万の富を築いていたのに、出所後はその財産が雲散霧消していたそう。

 

 その後、一度万引で捕まったものの、子供たちの世話になりながら、余生は静かに暮らしたようです」(濱田さん)

 

 晩年の記録は残されていないが、銀次は、口癖のように「スリなんてやるもんじゃないぞ」と話していたという。

 

写真・『スリ』(坂口鎮雄、柴田臥龍堂、1914)

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