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日本初の公民館、「読売新聞の買収費用」の恩返しで作られた/7月5日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.07.05 10:00 最終更新日:2021.07.05 10:00

日本初の公民館、「読売新聞の買収費用」の恩返しで作られた/7月5日の話

 

 1946年(昭和21年)7月5日、文部省から、日本全国の市町村に公民館を設置する旨が通達された。学校、図書館、博物館、公会堂、町村集会所などさまざまな方面の機能を期待され、建設や運営は地元の自主的な協力によって設置されるものとされていた。

 

 しかし、その頃からすでに公民館的な機能を持った建物は存在していた。日本初の公民館は、1941年、当時の読売新聞社長だった正力松太郎から、岩手県の旧水沢町に寄付された「後藤伯記念公民館」だった。寄付の経緯について、歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。

 

 

「後藤伯とは、大物政治家だった後藤新平のことですね。鉄道院総裁や内務大臣のほか、東京市長も務めた人物です。規模の大きい計画を立案することから、『大風呂敷』とあだ名されたこともあります。特に、1923年に起きた関東大震災の復興計画費は、当初は、当時の30億円以上(その後、10億円に縮減)と巨額すぎて、世間を驚かせました。

 

 正力は読売新聞社の社長になる前は警察官で、警視庁の警務部長までのぼりつめるなか後藤と出会います。正力は後藤の大局観を尊敬しており、後藤も正力を、将来は大物になると見込んでかわいがっていました。

 

 しかし、1923年、皇太子(後の昭和天皇)が暗殺されかけた虎ノ門事件が発生します。正力は事件の責任を取らされ懲戒免職となってしまいました。絶望した正力に対し、後藤は『当分静養しなさい』と慰め、しばらく面倒をみたとされます」

 

 その後、正力のもとへ、関東大震災の被害で経営不振になった読売新聞の買収話が持ち込まれた。とはいえ、買収にも資金が必要だ。10万円の資金が作れず、正力は後藤のもとを訪れる。

 

「正力の話を聞いた後藤は、2つ返事で資金の協力を約束します。『命がけで働きなさい』と激励された正力は、その言葉どおり新聞事業に身を投じ、やがて大成功をおさめました。

 

 実は後藤は、この10万円を、東京・麻布の自宅を担保に工面していました。後藤が亡くなって数年した頃、親族からこの話を聞いた正力は涙を流して感謝しました。恩に報いたいとして、後藤の故郷である水沢町に公会堂を寄贈したのです。これを、当時の商工省総務局長が『公民館』と名付けたとされます」

 

 正力は、建設費15万円に維持費5万円の合計20万円を水沢町に寄付している。もらった額のちょうど倍の恩義を返したことになる。後藤伯記念公民館は、いまなお公民館として現存し、日々、町の人々が利用している。

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