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人相書から手配写真へ…知られざる指名手配の歴史/7月9日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.07.09 11:00 最終更新日:2021.07.09 11:00
1958年7月9日、警視庁が日本で初めて全国に指名手配をおこなった。殺人・強盗事件21件、計26人で、総合特別手配と呼ばれた。
犯人が捕まっていない凶悪事件から特に悪質なものを選び、10万枚の写真入り手配書を全国の警察や駅などに配るほか、一般人にも協力を要請。過去に例を見ない公開捜査が始まった。
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21件の事件は強盗・殺人が主なものだった。「ガソリンをあげる」と自宅へ誘い、次々に3人を殺して裏庭に埋めて金品を奪った夫婦や、三角関係のもつれから愛人2人をダイナマイトで爆殺した男など、その内容は多岐にわたる。
いまでこそ、指名手配された容疑者たちの写真は当たり前のように交番や警察に掲示されている。さらには、目撃者の記憶から風貌を導き出すモンタージュ、AIに予測させた老け顔写真など、技術の進歩によりさまざまな角度から犯人を追跡できるようになった。
しかし、かつて顔写真がない時代には、文字や記憶だけを頼りに犯人を探さなくてはいけなかった。歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「江戸時代の指名手配は『人相書』というもので、犯人の氏名、年齢、背格好、しゃべり方などさまざまな特徴を、箇条書きで書き込んでいくものでした。
たとえば、江戸時代の後期に、大坂町奉行所の元役人・大塩平八郎らが奉行所の不正を憎んで反乱を起こしています。
幕府に追われるようになった大塩の人相書は、こんなふうに書かれました。
《一 年齢四十五・六歳
一 顔細長く色白き方
一 眉毛細く薄き方
一 額開き月代(髪をそり上げた部分)青き方
一 目細く釣り候方
一 鼻常体
一 耳常体》
いまから考えると、心もとない情報に見えます。この人相書がどれほど効果があったかはわかりませんが、大塩は約40日ほどで通報により潜伏先が露見しました」
明治時代になると、指名手配をめぐる様相も変わってくる。犯人の風貌を写真で伝える「手配写真」の制度を採り入れたのは、佐賀藩出身の江藤新平だ。
「できたばかりの明治政府で、初代司法卿となった江藤は、裁判制度や警察の体制を整備する一環で、手配写真を導入しました。小菅刑務所(現・東京拘置所)では、明治5年から、さっそく囚人の脱走を防ぐため写真撮影を始めたという記録が残っています。
しかし、江藤は征韓論問題で明治政府と意見が合わずにやめてしまい、のちに佐賀の乱を起こします。皮肉にも、自分自身がつくった手配写真の制度により、捕えられてしまいました」
手配写真の制度が定着し、犯人追跡の精度は上がっていった。おかげで、犯罪件数は減少傾向にある。
現在、全国で指名手配を受けている容疑者の数は約600人(2019年5月現在)。この数字が、0になる日が来るのだろうか。