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石垣島と東京には1時間の時差があった…2つ存在した日本の標準時/7月13日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.07.13 08:50 最終更新日:2021.07.13 08:50
1886年(明治19年)7月13日、明治政府が発布した勅令により、東経135度の時刻を、日本の標準時とすることが決まった。東経135度は兵庫県明石市の上を通っていることから、明石市が正午となる時間が、全国の正午となった。
実際に標準時が導入されたのは、1888年1月1日からだ。日本各地で臨時号砲が打たれ、日本の標準時が決まったことを人々に知らせた。標準時が導入される以前、人々はどのようにして時刻を知ったのだろうか。
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歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「江戸時代は不定時法が用いられていました。1日を昼と夜に分けて6等分し、それぞれを1刻と呼びのです。時間の単位は『刻』のみでしたから、時計の針も1つしかありません。
庶民は、城や寺から決まった時間に聞こえる『時の鐘』で、おおまかな時間を把握していたようです。このほか、紙の上に短冊を垂直に立てて、太陽の影の長さで時刻をはかる『日時計』も用いられていました。
明治時代になると、外国人との交流も増えていきます。西洋では、すでに今と同じように1日を24時間に分ける定時法が導入されていました。そのため、1872年には『改暦の布告』が出され、日本も定時法を使用するようになります」
標準時が導入される以前、日本各地の時間は少しずつ異なっていた。各地で太陽が南中する時刻をもとに正午を定める、地方標準時というものが使われていたからだ。
しかし、情報技術が発達し、地方間のやり取りが増えるようになると、時差があるとどうにも不便だという話になり、日本標準時が導入されるに至った。
その後、国内の時差はなくなったかと思いきや、一時期、日本に2つの標準時が存在していたという。
「1895年に出された勅令では、東経135度の標準時は『中央標準時』、東経120度が『西部標準時』と名づけられました。西部標準時が適用されたのは、石垣島や宮古島(八重山・宮古列島)のほか、当時日本統治下にあった台湾・澎湖諸島です。
台湾が日本の領地となったことで国土が西側に大きく伸び、生活の便を考えた結果、1時間の時差を作ったようです。ただ、結局は1937年に西部標準時は撤廃されています。2つの標準時があると政治や経済・交通その他諸々に混乱を招くという理由からでした」
現在、日本標準時は1つに統一されている。東経135度の上にある兵庫県明石市には、あちこちに日本標準時子午線の位置を知らせる標識や目印が設置されている。