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横浜のランドマーク「日本丸」…海洋国家を支えた「海の貴婦人」の一生/7月18日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.07.18 11:00 最終更新日:2021.07.18 11:00
1952年7月18日、航海練習船「日本丸」が東京・羽田沖を関係者500人が見守るなか試走した。
1930年に製造され、戦時中は練習船としての機能を停止していたが、この翌年から本格的に現役に復帰することになる。
神戸の川崎造船所で進水した日本丸は、船員を養成するためにつくられた帆船だ。「日本の海の王者にふさわしい船」という思いをこめて「日本丸」と名付けられた。
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歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「もともとは『霧島丸』という練習船が活躍していました。しかし、1927年に宮城県金華山沖で暴風雨のため沈没し、乗組員と生徒あわせて53名が全員死亡する事故が起きてしまいます。これをきっかけに『日本丸』が作られます。
日本丸は太平洋を中心に航海し、その美しい姿は『太平洋の白鳥』や『海の貴婦人』などと呼ばれました。
長らく練習船としての役目を果たしていたのですが、第2次世界大戦では、帆装を取り外され、石炭など緊急物資を運ぶ輸送船として使われました」
実際に、1942年3月24日から一週間に渡っておこなわれた「学徒海洋訓練」には日本丸、海王丸、大成丸などが参加したが、外洋航海に出ることは叶わなかった。早稲田大学ヨット部などを含めた学生250人は、関連施設の見学や座学、東京湾内での航海にとどまったという。
ちなみに、訓練に関する記録の一つである「船内居住者宿泊心得」には、「船内では口笛、高唱を禁ず」「就寝時は静粛にすること」などとくぎを刺す項目が設けられていた。
航海訓練といえど、それを受けるのはまだまだひよっこの学生たち。どんな時代でも、若者に落ち着きがないのは変わらないようだ。
「戦後になると、日本丸は復員船として活躍し、約2万5000人の引揚者を輸送、遺骨収集にも使われました。1952年になってようやく帆装が取り付けられ、練習船に復帰しました。
それから1984年に引退するまで、およそ183万kmを航海し、約1万1500名の実習生が日本丸によって育っていきました。現在は、横浜港の日本丸メモリアルパークで保存されています」