1936年(昭和11年)7月31日、IOC(国際オリンピック委員会)総会で、1940年の第12回オリンピック大会を東京で開催することが決定した。東京36票、ヘルシンキ27票という投票結果だった。
アジア初の開催であり、日本中が湧きかえった。開催決定の電報が飛び込んだ東京市役所では、職員たちによる「東京万歳!」の雄叫びが響き渡り、日の丸や五輪の旗を振りながらビールで祝杯をあげたという。
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第12回オリンピックは、日中戦争などを理由に返上され、幻に終わったことはよく知られている。しかし、そもそも幻となる以前の準備段階から、東京五輪は混迷の一途をたどっていた。
「開催中の東京2020大会を見てもわかるように、とかく東京五輪というのは迷走するものなんです」と語るのは、歴代の東京五輪を研究し、つい先日『緊急事態 TOKYO1964 聖火台へのカウントダウン』を上梓した、ノンフィクション作家の夫馬信一さんだ。
「1940年に開催されるはずだったオリンピックは、準備期間からして問題だらけでした。そもそも東京市(現在の東京23区)と大日本体育協会が意見の食い違いで対立を始め、ようやく組織委員会の打ち合わせができたのは、1936年の年末です。メインの開催地を決めるべく9カ所の候補地があがりましたが、以降、揉めに揉めることとなります。
当初、東京市側が推したのは、ちょうど現在選手村がある月島の埋立地でした。一方、IOCや体協関係者が推したのは神宮外苑です。月島は海風が強く、陸上競技などの会場に向かないことがわかってきたため、候補から外れました。では神宮外苑か、となりますが、そう簡単には決まらなかったのです」
このとき声をあげたのが、東京帝国大学工学部教授の岸田日出刀だった。ベルリンオリンピックを直接体験した岸田は、スケールの大きさに圧倒される。「もっと本気でやらなければ駄目だ」と神宮外苑案に反対し、代わりに陸軍の代々木練兵場を推薦したという。
とはいえ陸軍の反対もあり、いったんは神宮外苑案に決まりかける。そこへきて、今度は明治神宮を管轄する内務省からの横やりが入る。交渉は平行線となり、最終的に代案としてあがった駒沢ゴルフ場に決定したのが1938年のことだ。こうして、開催地問題はようやく幕引きとなる。
しかし、一難去ってまた一難。問題は山積みだった。
「公式ポスターもなかなか決まりませんでした。はじめは一般公募でデザインを募ったのですが、当時は誰もがパソコンやMacを持っているわけではありませんから、審査員を満足させるものが出てこなかったのです。実際に、審査会は締切を延ばして再募集をかけています。
2度目の募集では、神武天皇を描いた作品が1位となり、採用に至るかと思われました。オリンピック開催の1940年は、『日本書紀』にある神武天皇即位から2600年という触れこみでしたから、モチーフに使用するのは当然でしょう。しかし、内務省図書検閲課が天皇像の使用を認めなかったことから、公募案は没になってしまったのです。
最終的に、五輪公式マークの審査員だった和田三造という洋画家にデザインが任されます。この方は、のちに大映映画『地獄門』にて色彩デザインや衣装デザインを担当し、アカデミー賞まで取った大物です。
出来上がったポスターは、右手を掲げた選手の後ろで仁王像が立ち、背景に富士山が描き込まれたデザインでした。ただ、オリンピック自体が中止となったため印刷されず、ポスターもまた幻となってしまいました」
ほかにも、「オリンピックの華」とされるマラソン競技のコース選定でひと悶着あり、聖火リレーはプランが浮かんでは消え、一時消滅しかけるも復活。さらに万博との抱き合わせ開催が計画されるも、IOCから猛反発を食らい、五輪返上2カ月前のタイミングで、両イベントの会期をずらすことを確約する始末だった。
「1938年の7月には、万博の延期とともに、東京五輪の返上が閣議決定されました。たしかに前年あたりから日中戦争などで国際情勢が混乱しており、軍は『オリンピックなど浮かれた行事をしている場合ではない』というスタンスでした。しかし、この状況では、無理に実施してもうまくいかなかったのではないでしょうか。
開催中の2020大会も、今日に至るまで多くの問題が噴出してきました。当初の競技場のデザインや公式エンブレムが廃案になったり、開会式の責任者が降りるなど、数えるとキリがない。実は、成功とされる1964年大会も問題続きでした。東京五輪を調べてきた身からすると、今回の迷走にも正直驚きはありません。これこそが、東京五輪なんですよ」