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書いた脚本は1000本以上…向田邦子、突然の死から40年で再評価/8月22日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.08.22 09:37 最終更新日:2021.08.22 09:37
作家・向田邦子が、突如この世から姿を消して、もう40年になる。命日を前に、書店では特集コーナーが作られるなど、再評価の動きが高まっている。
1981年8月22日、台湾・遠東航空103便が墜落し、向田を含む乗客乗員110名が全員亡くなるという事故が起きた。
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向田は、当初中国のシルクロードを旅する予定だったが、手違いでキャンセルとなり、はじめての台湾旅行に予定を変更。8月23日には、高雄で珍しい蝶を採集する予定だったが、それは叶わなかった。
晩年の代表作である『あ・うん』に出演していた女優・岸本加世子は、1月14日放送の『徹子の部屋』で、訃報を知ったときのことを振り返っている。
テレビで速報が流れ、「K ムコウダ」のテロップを見たときに、「信じられなかったです。あの瞬間は凍りつきました」と涙ぐんだ。当時は泣きすぎて目が腫れ、翌日のテレビ取材には眼帯をしたという。
当時、向田は時の人だった。雑誌編集者を経て、脚本家として『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』『あ・うん』など、家族や女の内面を描いたドラマでヒットを飛ばし、人生で書き上げた脚本は1000本以上にのぼる。
エッセイスト・小説家としても活躍し、亡くなる前年には第83回直木賞を受賞している。
倉本聰や山田太一とともに「シナリオライター御三家」とまで称された。多くの人が絶賛する書き手だが、一方、かなりの遅筆で知られており、締切のばしの話はいくつも残されている。
テレビ界の大物プロデューサー・石井ふく子は、2020年6月13-20日号の『週刊現代』で、向田との思い出をこう語っている。
《脚本が上がるのは決まって収録ぎりぎり。才能の塊のような方でしたが、締め切りを伸ばす技術も天才的でした。
こちらはハラハラして脚本を待つのですが、やっと届いたものを読むと、これが絶品で、素敵なラブレターをもらったような気分になりました。》
脚本を取りに南青山のマンションまで訪れても、「ねぇ、ご飯食べた?」と言われ、自慢の手料理と雑談でけむに巻かれてしまうという。
『寺内貫太郎一家』に出演していた樹木希林も、脚本の遅さに怒り、向田へ「筋だけでいいから送ってください」と直接電話をかけたこともあった。
本人は後から「若気の至り。あんな大それたことを偉大な作家である向田さんによく言えたなと思って」と話したという。
頻繁に海外旅行に出かけたが、飛行機は苦手だった。『霊長類ヒト科動物図鑑』には、こうある。
《散らかった部屋や抽斗(ひきだし)のなかを片づけてから(飛行機に)乗ろうかと思うのだが、いやいやあまり綺麗にすると、万一のことがあったとき、
「やっぱりムシが知らせたんだね」
などと言われそうで、ここは縁起をかついでそのままにしておこうと、わざと汚いままで旅行に出たりしている》
虫が知らせたのか、台湾旅行の前には、部屋を掃除したとも伝えられる。真偽は定かではないが、向田邦子の人生は、最期までドラマチックだった。
写真・朝日新聞