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日本に民主主義を教えたマッカーサー、出迎えは新聞記者10人、見送りは25万人/8月30日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.08.30 13:00 最終更新日:2021.08.30 13:00

日本に民主主義を教えたマッカーサー、出迎えは新聞記者10人、見送りは25万人/8月30日の話

厚木飛行場に降り立ったマッカーサー(写真・朝日新聞)

 

 1945年8月30日、GHQ総司令官であるダグラス・マッカーサー元帥を乗せた専用機「バターン号」が厚木飛行場に降り立った。

 

 この日は朝から快晴だったという。日本側の出迎えは、新聞記者10名という小規模なものだった。軍服の一番上のボタンを外し、コーンパイプ片手にタラップから降りてきたマッカーサーは、記者たちを前に声明文を朗読する。

 

 

《メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定どおり進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、日本軍は続々降伏している。

 

 この地区においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。 日本側は非常に誠意をもってことに当たっているようで、報復や不必要な流血を見ることなく無事完了するであろうことを期待する》

 

 パフォーマンスを終えたマッカーサーは、用意された車に乗り込み、厚木から横浜に向かう。約1200人の兵士を従えて、一行は2時間近くかけて目的地のホテル・ニューグランドにたどりついた。本来であれば30分程度で終わる道のりだったが、年季の入った車ばかりで、故障車も出たことから、ずいぶんのんびりした旅路だったようだ。

 

 歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。

 

「9月2日には、降伏文書の調印がおこなわれ、日本は主権を失い、アメリカの占領下に入りました。以来マッカーサーは、戦後の日本に約2000日君臨します。マッカーサーに与えられていた権力は、アメリカ史上で類を見ないないほどの強いもので、軍国主義を排除し、新憲法の制定、女性の選挙権導入など民主化を進めました。

 

 その後1950年に起きた朝鮮戦争をめぐり、トルーマン大統領と激しく対立したマッカーサーは、GHQ総司令官を解任され帰国することとなりました。当時、GHQは厳しい検閲をおこない、マッカーサーに対する否定的な報道を許しませんでしたから、世間ではかなり突然の帰国に見えたようです」

 

 マッカーサー元帥は1951年4月16日午前6時30分、羽田空港から帰国の途についた。羽田への沿道には20万人とも25万人ともいわれる市民がつめかけた。

 

 帰国後の公聴会で、マッカーサーは「日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、われわれ(アングロサクソン)が45歳だとしたら、日本人は12歳の少年のようなものです」と語った。

 

 この言葉には批判も根強いが、「日本人は新しい概念を受け入れられるほど白紙に近く、柔軟性もありました」とも語っており、民主主義を教え込まれた日本人の再出発を、マッカーサーが支えたのは間違いない。

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