1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分、のちに「関東大震災」と呼ばれる大地震が、東京・横浜一帯を襲った。
死者・行方不明者は10万5000人に及んだ。なかでも、火災によって命を落としたのは9万2000人ほどいたとされている。
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ほとんどの家屋が木造だった時代に、火災の発生は命取りだ。熱で水道管が破裂したことから、消火活動もままならなかった。
当時、代々木に住んでいた作家の田山花袋は、『東京震災記』で体験をまとめている。田山の家はそこまで大きな被害はなかったが、ひとたび町に出れば苛烈な光景が広がっていた。隅田川周辺を歩いた田山は、見た光景を人にこう語る。
《『何しろ、君、川に添って舟が5隻も6隻もあるが、その舟が皆な焼けて、半分以上やけて、その舶のあたりに、手を挙げて救助を求めるような恰好をして、仰向けになって黒く焦げて死んでいる死屍が5つも6つもあったではないか。それを見ただけでも、その時の火のいかに強かったか、いかに絶望的であったかを知ることが出来るよ、君』》
歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「関東大震災では、44万戸以上の家屋が焼失、25万戸以上が全壊・半壊するという大きな被害が出ました。
幸い生き残っても、戻る家がない人がたくさんいたのです。人々は寺や学校などの避難場所に逃れたのち、日比谷公園などにできたバラックに移り住みました。
翌年には、住宅不足を解消するため、内務省に財団法人『同潤会』が設置され、仮設住宅や木造長屋などが次々とできました。復興計画の一環として、鉄筋コンクリートの同潤会アパートメントも建設されます」
丸の内や霞が関周辺も被害を免れなかったが、免震構造を施された東京駅は、揺れにも火災にも耐え抜いた。広間や待合室、通路、車両には避難者たちが殺到し、いっときは8000人にものぼったという。9月21日には営業を再開し、東京から地方へ避難する人々を貨車で運んでいった。
田山は、震災で倒れなかった東京駅を見て、この先、東京に立ち並ぶ景色を想像する。
《この大破壊の結果として、今度こそは本当にこのあたりが立派なものになって行くのであろう。一方は日本橋に、一方は京橋に、更に他の一方は銀座へと接続して行くようになるだろう。その時こそ、始めて、外国の都会に比べても決して恥かしくないような都会の中心が出来るだろう》
田山は、江戸的なものが少しも混ざらない新しい東京が立ち現れるなら、この大破壊もムダではなかったとする。
大正時代は、そこかしこに「古臭い江戸」が残っていた。関東大震災は、日本人が古きものを捨て去り、新しきものを採用していく “号砲” となったのだ。
写真・朝日新聞