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害虫研究の第一人者、生糸で日本の近代化を支える/9月7日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.09.07 16:20 最終更新日:2021.09.07 16:20
1899年9月7日、書籍『日本農作物害虫編』が刊行された。筆者は、昆虫学および養蚕学の基礎を築いたとされる、佐々木忠次郎という人物だ。
日本に養蚕技術が入ってきたのは、紀元前200年頃だといわれている。
以来、長らく国内で養蚕は続いてきたが、本格的に良質な生糸を生産できるようになったのは、明治時代から。一時は輸出の7割近くを占め、日本の近代化を支えた。
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歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「明治政府は、殖産興業の一環として、まずは富岡製糸場の建造に取りかかりました。この製糸場づくりに尽力したのが、元福井藩士だった忠次郎の父・長淳です。
長淳は、1874年にはウィーン万国博覧会に参加し、西洋の養蚕技術を日本に持ち帰りました。帰国後も研究を進め、皇室御養蚕御用掛にまでなっています。息子の忠次郎は、父の研究を引き継いだ形となりました」
父の背を追いかけるように、忠次郎は、昆虫学・養蚕学に大きな道筋をつけた。1881年、東京大学生物学科の初代卒業生となったのち、駒場農学校で日本初の昆虫学授業をおこなっている。
「研究では、蚕の病気の原因である害虫・カイコノウジバエを実際に飼育することで、生態を明らかにしています。農作物の害虫に関する研究も進め、生態を把握することで、具体的な防除方法を考え出しました。
果樹栽培で、害虫よけのために袋かけする光景は今でも見られますが、これは忠次郎が考案したものだとされています」
駒場農学校で教鞭を取ったのち、東京大学養蚕学教室の初代教授となり、後進を育て、多くの書籍を残した。
なお、東大総合研究所博物館には、忠次郎が収集したという昆虫標本がいくつも収蔵されている。国蝶となったオオムラサキの属名『ササキア』は、「昆虫学の創始者」として忠次郎に捧げられた。どこまでも、虫に生きた学者人生だった。