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23歳で妻をリンチ死「連合赤軍」元幹部・吉野雅邦の慟哭を聞け!【獄中で綴った300ページの手記を独占初公開】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.02.24 22:30 最終更新日:2022.02.24 22:42
吉野雅邦〈※1〉は「あさまさん」と、無期懲役刑で服役している千葉刑務所で呼ばれている。
半世紀前の1972年2月19日から28日まで、軽井沢の河合楽器の保養所、あさま山荘に立て籠もった連合赤軍メンバー5人のうちの一人だからだ。
連合赤軍は、前年の12月21日、群馬県の榛名(はるな)湖近くの山小屋で結成された。武装闘争による革命を目指す、赤軍派と革命左派という2つの小グループが統合し、総勢で約30名。銃や爆弾を持っていた。
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警察の捜査が及ぶにつれて、迦葉(かしょう)山、妙義山とベースを移動したが、その間に「総括」の名の下に12名の同志を死に追いやっている。
山に来ても化粧して指輪をしている。都市に活動に出たときに銭湯に入った。そんなことが総括のきっかけとなり、殴られたり、絞殺されたり、冬の山中で縛られて放置されて凍死したり、アイスピックで刺されたりして死に至った。
吉野雅邦は連合赤軍の7名の中央委員の一人であり、そのすべての死に責任を負っている。死者の一人である金子みちよ〈※2〉は、吉野の妻であり、娘を身籠もっていた。
■【出逢い】単身湖畔を散策し、砂浜に「みちよ」と木の枝で描いた
吉野は獄中で、327ページに及ぶ手記『省察ーー「連合赤軍」私史』を書いている。吉野とは千代田区立麹町小学校、中学校の同級生で、事件後『あさま山荘銃撃戦の深層』(講談社文庫)などを著した、作家の大泉康雄氏が、その手記を託されていた。
《彼女ーー金子みちよは、私が組織に入る約二年前に出逢い、当初は私の全存在を賭けて愛し続けようと、心に誓った女性でした》(手記より、以下同)
と始まる手記は、連合赤軍結成に至る前史で、金子との恋愛が細やかに描かれている。
1967年、入学した横浜国立大学で、吉野は混声合唱団に入った。そこにいた金子に、吉野は理想として思い描いていた女性像を見た。
《(一年生だけで行ったキャンプで)単身湖畔を散策し、砂浜に「みちよ」と木の枝で描いた上に寝そべったものの、やがて頭上の少し離れた所に足音を聞きました。慌てて起き上がると、彼女が一人通り過ぎていったところでした》
8月、合唱団全体合宿で行ったユースホステルのロビーで、吉野は金子に告白した。
《「これから個人的に付き合ってほしい」との申し出に対する彼女の返答は、「少し考えさせて」というものでした》
金子はすぐにも応じたい思いだったが、恋愛経験の豊富な友人に、告白されたときすぐに応じると軽く思われる、とアドバイスされていた。
合宿の3日後、自宅にいた吉野に、金子から電話があった。《特に用事はないの、なんとなく電話をしたくなっちゃって》。そして、甘えた声で《いつボーリングを教えてくれるの?》と金子は聞いた。清里からの帰途の車中で、吉野は金子にボーリングを教える約束をしていたのだ。
デートの当日、金子はボーイッシュに髪を短くし、ノースリーブのレモンイエローのワンピースを着て現われた。
その後もデートを重ねる一方で、吉野はベトナム戦争について、思い悩んでいた。
10月8日に、時の首相・佐藤栄作が、ベトナムを訪問することを知り、吉野は阻止行動へ参加する。
羽田空港に迫った吉野たちは頭にヘルメットを被り、角材を手にしていた。装甲車で塞がれた弁天橋を越えていこうと試みたが、機動隊の逆襲を受けて、最前列にいた吉野は頭を割られてしまう。女性に抱えられてデモ隊に戻ると、そこにいた金子に連れられて病院へと向かった。
《医師から「パンツも脱がないと」と言われた途端、そばの看護師にずり降ろされてしまいました。すぐ脇に立つみちよが気になり、心の中で “向こうを向いていてよ” と願いましたが、彼女はしかと私のその部分に視線を注いでおり “ああ、見られちゃったよ” と身が縮む思いでした》
11月下旬、大学裏の丘陵で、2人は初めてキスをした。
1968年1月、吉野は佐世保での原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争への参加を決め、金子には告げずに現地へ。だが、宿泊地である九州大学に金子が現われた。
金子は吉野の姿が見えないことに胸騒ぎを覚え、周囲に聞いて回り、居場所を突き止めて追ってきたのだ。
その後、吉野は闘争に参加しつつ、金子への愛を深めていった。6月、西伊豆・妻良(めら)への旅で2人は結ばれた。