■【同棲】もしどちらかを選ばなければならない状態になったら、僕は闘争のほうを選ぶと思う
1969年、全国に広がっていた全共闘運動によって、横浜国大も学生がキャンパスをバリケード封鎖し、ストライキを強行した。大学当局との団体交渉で逞しく見えた、先輩の柴野春彦〈※3〉の誘いで、吉野は革命左派に加盟する。
《工場労働者となって革命運動に挺身すると決意しつつ、他方ではみちよとの結婚生活も思い描き一層の関係の深化を念じていたわけで、この時点では、それが矛盾するものと気付かなかった》
吉野は大学を辞めて東京・大田区の精螺(せいら)会社の工員となった。同時に実家を出て、アパートで金子との同棲生活に入る。8月初旬だった。
吉野は革命左派の東京南部地区に所属した。その責任者が坂口弘〈※4〉だった。
坂口からの指示で、9月4日の愛知揆一外相の訪ソ訪米阻止のゲリラ闘争に、吉野は参加を決意する。幸せな同棲生活は、1カ月で終わった。
《「私と闘争とどっちが大事なの?」
そう詰め寄る彼女にこう答えたのです。
「どっちが大事という問題ではないと思う。それでも、もしどちらかを選ばなければならない状態になったら、僕は闘争のほうを選ぶと思う」》
前夜に海を泳いで渡り、羽田空港に侵入。外相が乗った特別機の離陸直前に吉野、坂口ら5人は、滑走路に躍り出て「反米愛国」の旗を掲げた。吉野は火炎ビンを《燃え盛る布が、手の甲を蔽(おお)い皮膚を焼け焦がす痛みを感じながら》投じ、全員が逮捕された。
金子は差し入れや弁護士の手配を、吉野を支えたい一心でおこなった。ほかの逮捕者のぶんまで、金子が背負い込むことになり、いつしか革命左派の活動家になっていく。
12月24日に、吉野らは保釈された。吉野は再会できた喜びから金子のアパートに入り浸り、革命左派の拡大党大会を欠席した。
その後、金子は救援用の資金20万円を電車の中で掏(す)られてしまう。これらの結果、吉野と金子は権利停止処分を受ける。処分を下した、革命左派のトップになっていた永田洋子(ひろ子)〈※5〉に金子は憤慨した。
《私が東池袋にアパートを借りたのも、本当はあなたの側に居て、毎日でも面会に行きたいと思ったからなのお。それでも、他の人に悪いと思って、週一回で我慢してた。寒くて、何も無いアパートで、食べるのも寝るのも切り詰めて、みんなのため、組織のために活動したのよ。それは二十万円どころじゃないはずよ。そんなに二十万円にこだわるのなら、バーにでもキャバレーにでも行って働き稼いで、二十万円突き返してやめてやる》
涙をこぼしながら、金子は吉野にこう迫った。
《ねえ、組織をやめて、二人で喫茶店をやらない。そうしよう、ね》
2人が所属していた合唱団が、文化祭で綿アメ店を開いたとき、吉野は《綿を通常の五割増しにしたり、カップル客には二本で五十円に割引するなどサービスに努めた》《お客さんに喜んでもらえることが、これほど楽しくうれしいこととは思わず、嬉々として立ち働きました》
そんな姿を、金子は覚えていた。だが吉野は、《……やめるわけにもいかないよ》と返答し、沈黙したのだった。