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23歳で妻をリンチ死「連合赤軍」元幹部・吉野雅邦の慟哭を聞け!【獄中で綴った300ページの手記を独占初公開】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.02.24 22:30 最終更新日:2022.02.24 22:42
■【総括】目の前で焔の中に投げ込まれるのを、見つめているしかありませんでした
7月13日には早岐が逃亡し、その後ベースは神奈川県の丹沢に移動した。
急拵(きゅうごしら)えのビニール小屋。6人がシュラフにくるまり、吉野と金子は隣り合っていた。
《横になってしばらくして、みちよが顔を寄せてきたので、私はそれに応じて接吻を交わしました。彼女はすぐに私の胸元へと唇を滑らせます。そこが私のウィークポイントと知ってのことです》
ちょうどそのとき、吉野は戸口から寺岡恒一〈※9〉に呼び出された。慌てて身づくろいをした吉野に、寺岡は早岐と向山を殺害する、と告げた。
《「殺(や)る?……殺す?……なぜ……」と、懸命にそれを咀嚼(そしゃく)しようと試みます》
吉野は結局、実行メンバーに加わった。8月3日に早岐が、10日に向山が殺害され、2人は千葉県の印旛(いんば)沼付近の山林に埋められた。
12月、連合赤軍が結成されてからは、総括リンチによる死が続いた。お腹に子どもがいることに甘えて、自らを総括しようとしていない、という理由で金子は殴られた末に縛られた。
吉野はうわごとを言う金子を、「うるさい、黙ってろ」と一喝した。金子は「私は山に来るべき人間ではなかった」という言葉を残して、1972年2月4日、死に至った。享年24。早岐から数えて13人めの死者だった。
死の3日後、金子の衣服が焼却された。吉野との初めてのデートのときに着ていた、レモンイエローのワンピースもその中にあった。
《目の前で焔の中に投げ込まれるのを、ただじっと見つめているしかありませんでした。その時に初めて、彼女がそれを山の中にまで持ち運んできていたことを知ったのでした》
金子の遺体を埋めるとき、吉野は脚を持った。吉野は手を離すことができず、遺体を頭から落としてしまった。そのとき、お腹の中で8カ月まで育っていた、娘の悲鳴が聞こえた気がしたという。
※
吉野は昨年10月、うっ血性心不全になり、現在は東日本成人矯正医療センターで治療を受けている。昨年末に吉野から大泉氏に届いた手紙には、これで何度めだろうか、「金子みちよとの出会い」の思い出が、またも克明に記されていた。
※1 吉野雅邦
1948年生まれ。1972年2月28日、あさま山荘事件で逮捕。1983年に無期懲役が確定
※2 金子みちよ
1948年生まれ。1972年1月20日に総括要求され、2月4日に死亡。妊娠8カ月だった。享年24
※3 柴野春彦
1946年生まれ。上赤塚交番を襲撃時、警察官の発砲により死亡。享年24
※4 坂口弘
1946年生まれ 連合赤軍では森恒夫、永田洋子に次ぐナンバー3だった。1972年2月28日、あさま山荘事件で逮捕。1993年に死刑判決が確定
※5 永田洋子
1945年生まれ 1972年2月17日、森とともに逮捕され、1993年に死刑判決が確定。2011年に東京拘置所内で病死。享年65
※6 川島豪
1941年生まれ 革命左派の指導者。武装闘争を指揮し、1969年12月8日に逮捕。1979年に出所し、し尿汲み取り業の会社を経営。1990年病死。享年49
※7 早岐やす子
1950年生まれ 8月3日に拉致され、吉野らに絞殺される。享年21
※8 向山茂徳
1951年生まれ 8月10日、吉野らに絞殺される。享年20
※9 寺岡恒一
1948年生まれ 1972年1月18日に死亡。享年24
※敬称略
文・深笛義也
ノンフィクション作家、『2022年の連合赤軍』(清談社Publico)著者
写真・朝日新聞/『あさま山荘銃撃戦の深層』講談社文庫