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吉野家「ミスター牛丼」バイトから社長への成り上がり半生

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2014.09.03 08:00 最終更新日:2016.02.26 02:02

吉野家「ミスター牛丼」バイトから社長への成り上がり半生

 

 8月29日、8月いっぱいで吉野家社長を退任する「ミスター牛丼」こと安部修仁氏(64)。高卒のバイトから社長にまで成り上がった“伝説の男”の半生と吉野家の歩みは、まさに安部氏の座右の銘「人間万事塞翁が馬」そのものだった。

 

 福岡県の工業高校を卒業後、プロバンドを目指して上京した安部氏は、’71年、吉野家新橋店でバイトを始めた。吉野家に関する著書もある亜細亜大学の茂木信太郎教授は次のように話す。

 

「安部さんはバイトとしても優秀で、当時社長だった松田瑞穂氏の目にとまり、正社員に誘われます。最初に吉野家第1号店の築地店に配属され、その後、新宿東口店の店長に抜擢される。当時22歳。入社してから、まだ4カ月でのことでした」

 

 安部氏が入社した’72年当時、まだ吉野家は5店舗しかなかった。だが、’76年の大阪進出を機に全国展開。翌年に100店舗、翌々年には200店舗にまで成長した。海外でも200店舗を目指したが、拡大戦略が裏目に出て、’80年に倒産の憂き目に遭う。

 

 再建中に起きた分裂騒動に巻き込まれ、営業部長だった安部氏は有楽町店の店長に降格。退社も考えた。しかし、セゾングループや保全管理人の増岡章三氏など再建請負人たちがそろって安部氏の求心力に目をとめた。東京地裁が更生計画を許可し、再スタートを切った新生吉野家の経営陣の一角に、33歳の安部氏が名を連ねた。’87年に更生手続きを終わらせ、’90年には株式公開をして完全復活。安部氏が社長に就任したのはその2年後だ。

 

「入社したころは松田社長のもと、無我夢中で拡大路線に進み、倒産後は裁判所から箸の上げ下ろしまで厳しく管理されるという両極端の状況を経て、安部さんはイケイケと超安全の両理論をバランスよく体得したのです」(茂木氏)

 

 そして、吉野家はデフレ経済のなかで打ち出した「280円牛丼」が大ヒットする。しかし、’03年にBSE騒動が直撃。米国産牛肉が輸入できなくなり、’04年、牛丼の販売を中止した。安部氏がとった作戦は、矢継ぎ早に牛丼以外のメニューを打ち出すこと。“牛丼マニア”の安部氏にとって、「麻婆丼」、「鮭いくら丼」などを出すのは内心穏やかではなかっただろう。

 

 それでも、「混乱が起きてもおかしくない状況でしたが、安部さんは『これまで米国産牛肉で稼がせてもらった。社員を1年半遊ばせるくらい大丈夫』と動揺を押さえました」(茂木氏)。

 

 このときの名言が「勝つまでやる。だから勝つ」というものだ。そしてその言葉どおり、吉野家は見事復活。’06年9月18日、牛丼復活祭を控え、安部氏は居並ぶ社員を前に「歯を食いしばっての活動、みんなにお礼を言いたい」と涙した――。

 

 今年3月、仙台市でおこなわれた商談会で、安部氏は「私が会社を通じて学んだのは、『人間万事塞翁が馬』という言葉です」とスピーチをしている。牛丼一筋四十余年、変わらぬ思いがそこにあった。

 

(週刊FLASH 2014年9月16日号)

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