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60兆円の税収しかないのに歳出は100兆円…いまこそ「財政規律」を目指した男・齋藤次郎を思い出せ

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.07.20 11:00 最終更新日:2022.07.20 11:00

60兆円の税収しかないのに歳出は100兆円…いまこそ「財政規律」を目指した男・齋藤次郎を思い出せ

瑞宝重光章を受章した齋藤次郎(写真・時事通信)

 

 10年近くにわたった安倍晋三菅義偉両政権がもたらした負の遺産は何か? いくつもあろうが、その最大は、財政規律の恐るべき劣化である。

 

 財政規律とは、辞書に「国や地方自治体の財政運営を放漫にするのではなく、秩序正しく運営するという概念、あるいは規範」とある。要は、財政とは、歳入と歳出の収支均衡が重要で、借金に頼ることなかれ、である。誰もがそうだろうなと思う、古今東西共通の基本モラルである。

 

 

 ただ、今この財政規律という言葉が、我が日本では死語になりつつある。国家予算は、60兆円の歳入(税収)しかないのに、100兆円を超える歳出を許し、残り40兆円を借金(国債発行)に頼るような予算を毎年平然と組んでいる。

 

 政府の財政赤字は、積もり積もってGDP比2.3倍と、欧米各国の中でも異様に突出しているのに、おかしい、と言う人が年々少なくなっている。異常事態の日常化という一種の正常化バイアスが働いているように、私には見える。

 

 安倍政権が始めた異次元金融緩和(アベノミクス)という政策が、その空気を作り上げた。日銀が国債をほぼ無制限に引き受けるという事実上の財政ファイナンスにより財政規律を麻痺、財政の放漫化を許容する一方、マネーストックを異次元に増やし期待感によって経済のインフレ化(=成長)を図る、という一石二鳥、夢のような政策であった。

 

 最後の貸し手である中央銀行(日本銀行)にすべてリスクを背負わせる禁じ手であったが、2年間の時限措置との触れ込みで導入された。

 

 その結果何が起きたか。円安と株高を呼び、輸出製造企業や投資家は一見潤ったが、それを圧倒的に上回る負の副産物をもたらしている。まずは、名目GDPが2012年の6.27兆ドルから2020年の5.4兆ドル(IMF統計)とドルベースでは2割縮んだことに気付くべきだ。

 

 企業収益は内部留保に回っただけでトリクルダウン(富が富裕層から低所得層に徐々に滴り落ちるとする理論)せず、勤労所得は伸び悩み、格差が拡大した。麻薬のような金融政策が企業精神を蝕み、産業構造転換を徒に遅滞させた。

 

 何よりも国家財政と日銀財務を瀕死の状態に追い込んだ。国債格付けは先進国で最下位の24位に転落、日銀はGDPを超える額の国債を背負わされ、金利上昇(国債価格下落)による債務超過の悪夢に日々さらされている。

 

 政策はやめ時を失い、その出口はいまだに見えない。にもかかわらず、なおMMT(現代貨幣理論)という、自国通貨である限りいくらでも借金はできる、という夢のまた夢のような議論までまかり通らせている。

 

 こんな時代のアンチテーゼとして、一人の人物を思い起こしたい。齋藤次郎という元大蔵(現財務)官僚である。財政規律の権化、財政健全化の鬼のような存在であった。

 

 役人中の役人といわれた大蔵省でも、10年に一人の逸材といわれた。あの小沢一郎と組んで国民福祉税の導入をもくろみ、失敗した時の大蔵事務次官だった、と言えばご記憶のある方もおられよう。

 

 実は、齋藤は退官後にもう一回小沢と組んで大仕事をしている。2007年の大連立構想である。衆参ねじれに苦しんだ福田康夫政権が野党第一党であった小沢一郎率いる民主党と、連立政権を組もうとした大政局だ。

 

 結果的には不調に終わったが、小沢の裏にいたのが齋藤であった。齋藤の狙いは大連立という政権の安定基盤を作ったうえでの消費税増税の実現であった。一敗地に塗れた国民福祉税の復讐戦でもあった。

 

 齋藤はなぜかくまでして財政規律の回復(=財政健全化)の道を追求しようとしたのか。国民の嫌がる増税をかくも執念深く追いかけたのか。

 

 齋藤は旧満州(中国・東北地区)で生まれ、敗戦と共に訪れた国家破綻の悲劇を外地で身をもって経験した。普段はおくびにも出さないが、敗戦後留め置かれた大陸ではソ連軍の暴虐に怯え、12歳で初めて祖国・日本の地を踏んだ後もひもじい日々を送り、中学校時代は「チャイナ」のあだ名でいじめられた。

 

 国破れて山河あり。ただ、国民は戦争の後遺症に塗炭の苦しみを味わう。齋藤少年もその一人だった。

 

 なぜあの戦争があそこまで拡大したのか。敗戦後の混乱はなぜ起きたのか。いずれも国家財政のあり方と深いつながりがある。

 

 戦争には兵器調達と兵站費用など莫大な軍費がかかる。あの戦争に突入した日本では、軍部の強圧に財政当局が抗し切れず、青天井の軍事国債を発行した。それが身の丈を超えて戦闘を加速、今では信じられないような地域にまで戦線を拡大させる背景の一つとなった。

 

 戦後の財政法が国債発行に対し世界で最も厳しい財政規律を課した(赤字国債発行には国会承認が必要)のはその反省からだ。憲法9条の非戦思想と表裏一体のもの、裏書きともいわれる。

 

 戦後の物資不足と高インフレも国民生活を苦しめた。軍事国債乱発の後始末でもあった。この国の借金帳消しのために取られたのが、財産税の特別課税であり、預金封鎖・新円切り換えであった。国民生活を犠牲にし巨額借金を事実上踏み倒したことで、戦後がスタートしたことを我々は忘れてはならない。

 

 このように国家財政のガバナンスの失敗が戦争を暴走させ、そのツケをまた財政的措置で国民に転嫁する。国家財政の健全性を維持すること、財政民主主義を働かせ、財政規律を徹底させることこそが、戦争を抑止するためにも、国民生活を守るためにも、国家統治の基本であるべきだ、という思想がそこに生まれる。

 

 齋藤もまたその思想の持ち主であった。満州での突然の国家破綻、という原体験が少年期にトラウマのように刻まれ、財政規律・健全化路線を血肉化させるファクターの一つとなった。その齋藤が日本財政の守護神ともいうべき大蔵官僚になったのはある意味必然かもしれない。

 

 大蔵省では主計官僚として、財政放漫化を防ぐための新制度・仕組みの構想を得意とした。二度にわたるオイルショックを経て、ちょうど日本の財政が緊縮型への転換を迫られた時節と重なった。

 

 主計局の参謀本部とも呼ばれる企画担当主査・主計官を5年務め、日本より進んでいたドイツの予算査定方式を導入、財政規律の徹底強化を図った。当時勢いのあった臨調行革審の「増税なき財政再建路線」を政治的追い風に使って歳出を軒並みカットした。

 

 主計官僚としてはなかなかの大仕事だった。大蔵省に齋藤あり、との風評も立った。

 

 ただ、時代の歯車が大きく動く時期とぶつかった。冷戦崩壊と共に日本の右肩上がり成長経済は終焉を迎えた。少子高齢化で社会保障費が急増していった。小手先の歳出削減ではとても間に合わない構造的財政赤字現象が常態化した。

 

 社会保障費の膨張という歳出増圧力と、バブル崩壊による法人税、所得税減収により、歳出入の差(=財政赤字)が鰐の口のように開いていくのを避けることができなかった。

 

 シルバー民主主義の時代、社会保障費の自然増は削りようがない。歳出入のバランスを取るためには、論理必然、歳入を増やす(=増税)しかなかった。それもすでに落ち目の法人税、所得税の増税というわけにはいかない。担税力からすればまだ欧米諸国から比べて税率の低い付加価値税(消費税)の増税しかなかった。

 

 しかし、これも簡単ではない。大平正芳政権の一般消費税、中曽根康弘政権の売上税の失敗、竹下登政権の消費税導入(と同時に退陣)といった死屍累々の歴史からして、よほどの政治力がなければなし得ない大技であった。大蔵官僚はその出口探しに悶々とした。齋藤もその一人だった。

 

 齋藤が運命の政治家、小沢一郎と出会ったのはちょうどその頃だ。齋藤が大蔵省官房長で、小沢が自民党幹事長だった。まだ、自民党が単独で政権を握っていた派閥全盛時代、経世会(竹下派)という最大派閥をバックに最も勢いのある政治家だった。

 

 霞が関官僚組織のヒエラルキーの頂点に立つ大蔵官僚のそのまたトップ候補が齋藤なら、永田町派閥連合体であった自民党の最大派閥の次期領袖最有力候補が小沢であった。

 

 大蔵省からすれば、与党自民党の協力がなければ、予算の編成もそれを国会で通すこともできない。自民党からすれば、霞が関最大の行政権力である大蔵省を味方につけることが政治家としてのパワーアップにつながる。過去、田中角栄も竹下登もそうして大蔵省と付き合ってきた。

 

 その意味では2人の接近は必然的なものであった。齋藤も小沢も、仕事上必要で、あるいはお互いのポスト、パワーを利用するために付き合い始めた。ただ、その関係は次第に一筋縄ではいかないものに変わっていく。

 

 それは冷戦終焉、バブル崩壊という時代の激動に突き動かされたものだったのかもしれない。2人の権力者は、それぞれに時代的使命感を抱くようになる。齋藤にとって、それは財政健全化のための消費税増税であり、小沢にとってそれは日本政治革新のための選挙制度改革であった。

 

 小沢の目標達成に齋藤がどう関われるかは別にして、齋藤の、そして大蔵省の組織としての悲願でもあった消費税増税は、強い大蔵省と政治中枢の強い意志が必要条件だった。齋藤にとって小沢はそれを共になしうる唯一無二の政治家に映った。

 

 2人には共通点があった。

 

 1つは、過剰なほどの自信家である。個人的にもそうだったが、齋藤は最強官庁・大蔵省、小沢は最大派閥・竹下派という組織的背景がさらにそれを強めさせた。

 

 2つに、物事を構造的、本質論的に捉えようという思考形態だ。大きな仕組みや枠組みを変えることに強い意欲を持っていた。決断も早かった。ツーカー的な会話が成立しやすかった。いくつかの政策課題を手掛けているうちにそれは同志的関係に昇華した。

 

 国民福祉税も大連立もその文脈で浮上し、消えていったのである――。

 

 

 以上、倉重篤郎氏の新刊『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』(光文社)をもとに再構成しました。大蔵省で「10年に一人の逸材」と呼ばれた「役人の中の役人」の伝記的ノンフィクション。

 

●『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』詳細はこちら

 

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