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人食いクマの胃から見つかった赤ん坊の手、むしられた頭皮…開拓民を震撼させた「丘珠ヒグマ事件」

社会・政治 投稿日:2023.03.11 11:00FLASH編集部

人食いクマの胃から見つかった赤ん坊の手、むしられた頭皮…開拓民を震撼させた「丘珠ヒグマ事件」

 

 北海道にのみ生息するヒグマ。北海道開拓の歴史は、この猛獣との戦いによって進展してきたと言ってもいいだろう。環境省の報告によれば、ヒグマによる死亡事故は、1980年以降15名。2008年の3名をピークに、数年おきに1〜2名が犠牲となっている。

 

 しかし、かつては1頭のヒグマが複数の人間を襲って死に至らしめる事件が続発した。今回改めて凄惨な事件の経緯を振り返り、現場を歩いてみた。

 

 

 明治11年(1878年)に起こった「丘珠ヒグマ事件」は、開拓史の置かれた札幌の近郊で起こったこともあり、入植者らを震撼させた。

 

 

 事件の資料は乏しいが、北海道帝国大学教授で動物学者の八田三郎による『熊』(明治44年)に、事件の経緯が比較的詳しく記されている。一部を引用してみよう。

 

《明治11年(1878年)12月25日の当夜は非常な雪降りであった。師走の忙しさに昼の疲れもひとしおで、炉に炭を焚きたてて安き眠りに就いた。

 

 一睡まどろむ間もなく、丑の刻と思しきに、暗黒なる室内に騒がしい物音がした。(堺)倉吉は目を覚まし『誰だッ』と云う間もあらず、悲鳴を挙げた、やられたのだ。

 

 妻女は夢心地に先ほどからの物音を聞いていたが、倉吉の最後の叫びに喫驚(びっくり)し、裸体のまま日も経たぬ嬰児(赤ん坊)をかかえて立ち上がった、この時背肌にザラッと触れたのは針の刷毛で撫でたような感じがした、熊に触れたのだ。》

 

 妻は、夢中で戸外へ出て、川向かい(伏古川)の雇い人、石沢定吉宅に助けを求めた。このとき、すでに主人と赤ん坊、さらに別の雇い人が食われていた。妻も襲われて重傷となったが、幸いにも、食い殺されることはなかった。

 

 翌日、「熊討獲方」が到着すると、倉吉は原形をとどめないほどに食い荒らされていた。程なくして山林に潜んでいたヒグマが討ち取られた。身の丈6尺3寸(約190センチ)の雄の成獣であった。

 

 このヒグマは札幌農学校に運ばれ解剖されたが、その胃袋からは、赤ん坊の頭巾や手、妻の引きむしられた頭皮、倉吉らのものと思われる足など、被害者の肢体の大部分が得られた。それらはアルコール漬けにされ、ヒグマの剥製とともに長らく展示された――。

 

 以上が事件のあらましである。当時の開拓小屋といえば、木枝を組んで笹の葉を差しかけ、ムシロを垂らしただけの、きわめて簡素な掘っ立て小屋だった。要するに外とたいして変わらない家屋で、そこにヒグマが襲いかかったのだ。

 

 実はこの事件、『新版ヒグマ 北海道の自然』(門崎充昭・犬飼哲夫著)では、明治11年1月17日が発生日となっていて、その経緯も若干異なる。

 

 事件発生の数日前、円山と藻岩山の山間に熊撃ちに行った、山鼻村の蛯子勝太郎が逆襲されて咬殺され、ヒグマはそのまま「穴持たず」となって徘徊を始めた。穴持たずとは、冬眠穴に入りそこねた個体で、飢餓に迫られて徘徊するため、きわめて危険だといわれる。

 

 開拓史は熊撃ちに命じて追跡させたが、白石村から雁来村に来たところで吹雪に阻まれて断念。このヒグマが堺家を襲ったものだという。また堺家の雇い人は女性で、妻とともに逃れたことになっている。

 

 これまでの諸説では、この事件で死亡したのは3名で、その内訳は「倉吉、留吉、蛯子勝太郎」(犬飼哲夫、門崎充昭説)あるいは「倉吉、留吉、雇人酉蔵」(八田三郎説)で食い違いが見られた。

 

 だが、道立文書館に保管されている『開拓使公文録』中の『明治十一年 長官届上申書録』という文書には、《堺倉吉居小家へ猛勇乱入、倉吉ならびに同人長男、留吉儀は即死、倉吉妻リツおよび雇人姓不詳酉蔵は重傷を受け翌十九日酉蔵死去致し候》とある。

 

 当時の新聞とあわせると、犠牲者は「倉吉、留吉、雇人酉蔵、蛯子勝太郎」となり、丘珠事件における死者は4名というのが正しいことになる。

 

 生き延びた妻は「利津」といい、当時34歳だった。南部の生まれで、19歳のときに、当時まだ蝦夷と呼ばれていた北海道に渡り、堺倉吉と同伴して内地に帰ろうとした。しかし、箱館戦争に阻まれて引き返し、「当時大森林であった札幌の附近」に住むことになった。「札幌の附近」とは、事件現場となった丘珠村のことだろう。

 

 札幌市東区にある「札幌村郷土記念館」の資料等によれば、丘珠村には明治3年に酒田県(現在の山形県酒田市)からの開拓移民30戸88名が入植したそうである。堺倉吉も酒田にゆかりのある人物だったのかもしれない。

 

 同館が編纂した『東区今昔3「東区開拓史」』には、明治初期に札幌村(現在の東区)に入植した開拓団の人名が詳しく記載されている。明治4年の『札幌郡丘珠村人別調』に「堺倉吉」の名前があった。

 

第16番
堺倉吉 37
妻・利津 29
女・政 2
母・喜都 65

 

 この資料によれば、事件当時、倉吉は46歳、利津は36歳だったことになる。倉吉の母・喜都は、事件発生時にはすでに死去していたのだろう。また子供は「政」とあるが、ヒグマに襲われたのは「留吉」という男児であった。政は早くに亡くなり、新たに留吉が生まれたのかもしれない。

 

 この丘珠事件がいつ起こったのかについては、「1月」か「12月」かで長らく議論が交わされてきた。その理由は、前出の八田博士が丘珠事件の3年前に起きた、極めて似かよった事件と混同してしまったことによるらしい。

 

 2つの事件は民家に猛熊が乱入するという点で共通しており、かつ発生日時も「明治8年12月」と「明治11年1月」で、なんとなく似ている。混同しても無理からぬところではある。結論から言えば、この事件は明治11年1月だと断定して間違いはない。

 

『東区開拓史』には、明治4年の丘珠村の略図が添付されている。これを注意深く見ていくと……おお、「堺倉吉」の名前があるではないか。札幌中心街から北に向かって、伏古川が北西に大きく屈曲する手前あたりの丘珠街道(石狩街道)沿いである。

 

 開拓当時の丘珠村は、鬱蒼とした樹海であったという。明治12年に同村を訪れた開拓史物産局員の備忘録には、次のような一説がある。

 

《丘珠村の如きも、石狩街道にてかなり道幅広く開きあるも、両側大樹のため旅行者は熊害を懼(おそ)れる程の有様にて、毎月大木を伐倒し、これに火を移しその焼失するを待ち開墾する態の始末、実に未開の形そのままなりし》

 

 現在はトラックが頻繁に往来する幹線道路である。左手に丘珠神社を見ながら車を走らせると、数百メートル先で伏古川が大きく西に屈曲する。現場は、そこに建つ「火の見櫓」が目印である。

 

 車を停めて付近を散策してみる。少し戻った街道沿いに建つ一軒の豪邸。その表札を見ると、大正期に堺家の隣人であった家ではないか。堅実にタマネギ農家を続けて財をなしたのであろうか。

 

 この家の隣に堺倉吉の「開拓小屋」があったはずである。しかし、そこは現在、立派な老人ホームなのであった。当時の面影を偲ばせるのは、悠久の流れを営み続ける伏古川のみである。

 

プロフィール
中山茂大 1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

 

写真・文/中山茂大

( SmartFLASH )

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