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被害にあった本誌カメラマンは「ねっとりとした甘い匂いが」…麻原彰晃の知られざるマスコミ懐柔策と残された禍根【地下鉄サリン事件を回顧】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.03.26 06:00 最終更新日:2023.03.26 06:00
1995年3月20日午前8時頃、東京都心を走る地下鉄は通勤客でいっぱいだった。オウム真理教の信者らは、満員の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の車内で猛毒の神経ガス・サリンを撒き、13人を死亡させ、約6300人に重軽傷を負わせた。
事件発生時、本誌カメラマンはサリンが撒かれた丸の内線に乗り合わせていた。「サリンが入った四角い箱からわずか2メートルしか離れていなかった」と証言する。
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「いきなり乗客のみなさんが咳き込んだんです。私も喉に違和感があり、次第に読んでいた新聞の字が見えなくなりました。やがて、車内の電灯はついているのに視界が暗くなり、その直後に意識が遠くなりました」(本誌カメラマン)
「ねっとりとした甘い匂い」がかすかに記憶に残った。駅員3人が車内に来て『これだ』と言いながら四角い箱をほうきとチリトリで片づけている光景もぼんやりと覚えている。
「取材で大船(神奈川県)の医療施設に行く予定だったので、意識はもうろうとしていましたが、なんとか向かいました。すると、医師が私の顔を見るなり薬物中毒を疑い、すぐに点滴を打ってくださったんです。結果的に、この処置が重症化を防いでくれました。
翌日は大学病院に行きましたが、サリンの処置方法が見つからず、治療はできませんでした。1週間ほどひどい頭痛が続き、咳も止まりませんでした」(同)
日本の犯罪史上に残る、この凶悪犯罪はなぜ起きたのか。
「1984年、前身の『オウムの会』を立ち上げた麻原彰晃は、1989年、悲願の宗教法人格を獲得します。しかし、強引な信者勧誘などが問題視され、同年にサンデー毎日が『オウム真理教の狂気』として7週にわたり告発報道をしました」(週刊誌記者)
以後、オウム真理教は意に沿わない報道をするマスコミに激しく圧力をかける。ときには信者が会社まで押しかけ、「やらせとウソの報道をするな」と糾弾。そして、この年、被害者の窓口になっていた坂本堤弁護士一家を『教団にとって邪魔になる』と殺害した。
実は、その一方で、マスコミ懐柔も周到におこなっていた。当時を知る本誌記者がこう説明する。
「オウム真理教については、世間の注目度が高いため、スクープ合戦になっていました。そのことを理解していたオウム側は、『悪い記事にしないなら』という条件で、麻原の幼少期の写真を提供したり、単独インタビューに応じたりしたのです。
『空中浮遊を撮影させる』と言われた新聞社もありましたが、浮遊は実現しなかったそうです。麻原の日常に密着する企画を持ち込まれた社もありました。そしてついに、現役の政治家を介して、懐事情が厳しいマスコミに資金提供し、記事の体裁で特集を組ませたこともあるのです。
当時は、『私がオウム真理教との仲を取り持ちます』という、ブローカーのような怪しげな人物が動き回っていました。しかし、他社のある編集者は、『彼らに一度でも協力を仰ぐと、まるで弱みを握ったかのように無理難題をふっかけてくる』と言っていました」
オウム真理教寄りの報道は、世間の反発を買うかと思われたが、総じて売れ行きはよく、また視聴率も高かったという。雑誌に関しては信者が買い占めたとの見方もあったが、それだけでは説明がつかないほどの部数が売れた。それも、マスコミがオウム真理教にすり寄る遠因だったとされる。
麻原はその後、独自の国家を樹立することに執心する。1990年に『真理党』を結成、麻原を含む25名の候補者を擁立して衆院選に挑み、街宣車上で美女軍団を踊らせたり、奇抜な歌を流して注目を集めたが、結果は全員落選。供託金も没収された。
「世間の関心も薄れ、脱会者が相次いだため、危機感を持った麻原は『ハルマゲドンが起きて世界は滅びる。オウムにいないと助からない』と終末思想を唱えます。これが地下鉄サリン事件へとつながったのです」(前出・本誌記者)
この事件の禍根はあまりに大きすぎる。
( SmartFLASH )