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ヒグマに引っぱられた右腕が根元から千切れた!子供を喰われた店では12年後にも被害に【飼育グマ喰い殺し事件】

社会・政治 投稿日:2023.05.27 06:00FLASH編集部

ヒグマに引っぱられた右腕が根元から千切れた!子供を喰われた店では12年後にも被害に【飼育グマ喰い殺し事件】

飼育グマによる人身事故が12年間で3件も発生している

 

 おそらく偶然だろうが、北海道・弟子屈町で飼育グマによる人身事故が12年間で3件も発生しているので、以下に見てみよう。

 

 昭和44年(1969年)9月15日、北海道川上郡弟子屈町屈斜路の土産物店で、釧路から遊びに来ていた会社員の長男(5)が、オス・メス2頭のヒグマが飼われている柵の中に入り込み、そのうちのオスが男児に襲いかかり、脇腹に噛みついて二度三度と振り回した。

 

 

 近くにいた人たちがすぐに追い払い、男児を助け出して町内の病院に運び込んだが、間もなく容態が急変し、1時間後に死亡した。

 

 このとき、医師が血液型を間違え、B型であるのにA型100ccを輸血してしまったので、当初は医療ミスが原因とされた。だが、同日夕刊では、クマによる傷が右脇腹から骨盤にまで達していたことが死因であったと訂正された。

 

 事故当時、父親は車が故障したため現場にはおらず、知人に世話を任せていたという。土産物店の店主小浜良造(42)は、警察と町役場から危険だから全面に金網を張るよう改善勧告されていたが放置していた。

 

 噛みついたクマは3歳8カ月のオスで、体長120センチ、体重100キロであった。

 

 昭和56年6月22日、この屈斜路の土産物店で店主・小浜良造の悲鳴がした。

 

 長男が駆けつけたところ、成獣を飼育している檻の中で小浜が血まみれになって倒れ、回りをヒグマがうろついていた。長男は猟友会に頼んで、その場で3頭を射殺、小浜を救出したが、すでに死亡していた。後頭部陥没骨折のほか、手足を噛まれるなどの傷をうけていた。

 

 当時、同店では7頭のヒグマを飼育しており、小浜みずから毎日世話をしていたという。檻は鉄パイプで造られ、左右の檻にそれぞれ成獣3頭、幼獣4頭が飼われていた。

 

 事件が起こった季節がちょうどヒグマの繁殖期にあたり、気が立っていたことが原因のひとつとされている。男児が死亡した事件から12年後、店主みずから噛み殺されてしまったという皮肉な事件であった。

(北海道開拓記念館研究年報第10号所収、犬飼哲夫・門崎充昭『北海道における近年の飼いグマによるヒトの被害』と新聞報道をもとに構成)

 

 なお、弟子屈町では、昭和50年10月17日、「川湯アイヌコタン」で、広場で遊んでいた3歳の女児が、飼育中のツキノワグマの檻に手を差し込んだところ噛みつかれ、右手人差し指を喪失してもいる。 檻は2メートル四方で、径10センチほどの丸太を組んだものであった。隙間も10センチほどあったにもかかわらず、周囲には柵がなく、自由に檻に近づける状態だった。

 

 飼いクマに殺される事件は、北海道全体でみれば、意外に数が多い。

 

 昭和4年12月9日、富良野市の東大演習林事務所勤務の佐藤利三郎が外出から戻り、いつものように鉄檻に飼われている4歳ほどのヒグマに手を伸ばしたところ、クマが佐藤の右手を捕まえ、力いっぱい檻の中へ引っ張り込んだ。

 

 佐藤が悲鳴を上げると、佐藤の長男の妻が飛び出してきて、腕の引っ張り合いとなった。檻の中のクマはますます猛り狂って強引に腕を引っぱり、ついに佐藤の右腕が根元から千切れ、引き抜かれてしまった。直ちに旭川市内の病院に運んだが、出血多量のため翌日死亡した。

 

 クマは日頃、利三郎に馴れていただけに、この悲惨な出来事は人々を驚かしたと『富良野こぼれ話』(富良野市郷土研究会、昭和54年)にある。このクマは翌日、アイヌに依頼して射殺された。

 

 最後に、考古学者・米村喜男衛の甥が、飼育中のヒグマに襲われた痛ましい事故を紹介しよう。

 

 米村は、大正2年(1913年)、アイヌ文化研究のため訪れた網走でモヨロ貝塚を発見。以後、網走に居を構え、本業の床屋のかたわら、日夜、貝塚の調査研究に没頭。北方系の渡来文化「オホーツク文化」の存在を明らかにし、「考古学者の床屋さん」として著名な市井の学者であった。

 

 昭和11年、自らが収集した資料をもとに「北見郷土舘」を開設したが、そのわずか2年後に悲劇が起きてしまった。

 

 新聞での第一報は情報が錯綜していた。

 

《十一日午後零時半頃網走町北見郷土館境内に飼育していた三歳のひぐまが檻の上部を破って飛出し附近をうろついているとは知らず、米村同館主事の弟理髪業米村喜重三郎氏の二男明英さん(六つ)が店員に連れられ、いつものように餌を携へ熊に近寄った途端、熊は同君に飛びかかり頭部をかきむしり人事不省に陥らしめた、明英君は網走病院にかつぎ込まれ内山院長の応急手当を受けたが頭髪全部剥脱し見るも無惨な重傷で生命危篤である》(『小樽新聞』昭和13年12月13日夕刊)

 

 しかし実際の情況はかなり異なっていた。以下は『北海道における近年の飼いグマによるヒトの被害』(上掲書)の記録で、こちらは詳細な検証を元にしている。

 

 12月11日午前、北見郷土館付近でスキー遊びをしていた子供数人が、飼育中のクマ檻にストックを入れ、クマを突くなどして悪戯したところ、クマが怒って暴れ出した。

 

 檻は角材を組んだ木造であったが、基礎部分に組んだ丸太がずれ落ちて隙間が生じ、ヒグマが這い出てきたので、子供たちはスキーを滑らせて逃げた。

 

 午前11時頃、使用人の青年が明英(4)を連れて給餌に訪れたところ、檻の外にヒグマがうろついていて、2人を見て駆け寄ってきたので、青年は明英を放置して400メートル離れた米村宅に走った。

 

 明英は日頃からこのクマをかわいがっていて、子熊の頃には一緒に入浴するなどしていたので、事件当日も給餌に連れていくことをせがんだという。

 

 米村が現場に急行すると、明英は雪の中に倒れて泣いており、ヒグマは放り出されたエサを無心に食べていた。米村が名前(「べーべー」という)を呼ぶと走り寄ってきたので、難なく捕まえて立木につないだ。

 

 明英は頭部に全治3週間程度の傷を負っていたが意識は明瞭であった。しかし、搬送先の病院で麻酔を施したところ、術後も意識が戻らず、午後6時半に死亡してしまった。つまり死因は医療ミスであった。

 

 北見郷土館では鉄筋コンクリートの畜舎を新築中で、吹雪のため完工が遅れていた矢先の悲劇であった。加害クマは1歳11カ月のオスで、明英の頭部の傷は、ヒグマがじゃれついた際に勢い余ったものと思われた。

 

 事件後、このヒグマは警備員によって手斧で撲殺されてしまったという。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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