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人喰いヒグマの “解体ショー” 腹から出てきたのは血まみれの半身、残り半分は内臓を露出したまま土中に【天理教布教師熊害事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.07.15 06:00 最終更新日:2023.07.15 06:00

人喰いヒグマの “解体ショー” 腹から出てきたのは血まみれの半身、残り半分は内臓を露出したまま土中に【天理教布教師熊害事件】

 

 北海道ヒグマによる被害がもっとも多かった地域として、士別市があげられる。特に市西部の温根別町では、大正から昭和初期にかけて人喰い熊事件が多発した。

 

 なぜこの地域にヒグマの出没が集中したのか。

 

 地形図を見ると、その理由を推測することができる。ひとつは石狩川と天塩川の関係である。南流する石狩川と、北流する天塩川が、それぞれ上流部の支流、雨竜川と剣淵川で交錯する、その地点こそが士別市西部である。

 

 

 もうひとつは標高との関係である。北海道北東部を南北に走る天塩山地が、ピッシリ山(1032メートル)と三頭山(1009メートル)間の霧立峠(387メートル)で大きく標高を落とす。この峠を東に下っていくと、添牛内集落、次に温根別村、そして士別、剣淵の市街地に至る。

 

 最後に開拓との関係が指摘できる。石狩平野の入植が早い段階から進んだため、増毛山地のヒグマは南への道を絶たれ、北上せざるを得なくなった。

 

 これらを総合すると、次のようなことが言えるだろう。

 

 石狩川、天塩川、そして日本海に囲まれた一帯のヒグマが、北海道内陸部に移動するために、もっとも都合のよい通り道が霧立峠である。言い換えれば、この地域を巨大な巾着袋と仮定して、その出入口にあたるのが士別市なのである。

 

 この地域がヒグマの通り道であったことは、当時の新聞記事や地元民の証言からも知ることができる(文中に出てくる西原、学田、イパノマップは、いずれも士別市街と温根別集落の中間に位置する地名である)。

 

《熊は、奥士別(朝日町)から、士別の川西を経て、南士別、西原、雨龍への通り道であったとも言っていました》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「父が残した話題と記録 山口吉高」)

 

《おそらく西士別学田から南士別(演武)・イパノマップ、さらに温根別へと熊が通る路であったようです》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「さいもん語りと開拓 南條兵三郎」)

 

■【「天理教」布教師熊害事件】(昭和6年)

 

 士別、剣淵地方で広く言い伝えられてきた事件に「天理教布教師熊害事件」がある。この事件は白昼堂々、市街地からほど近い場所で発生したことから目撃者も多く、討ち取られた熊が公衆の面前で解体されたため、ショッキングな事件として長く語り継がれてきた。概略は『林』(1953年12月号)で犬飼哲夫教授が記録している。

 

《白昼に道路を通行中に熊にさらわれた青年がある。

 

 昭和六年十一月に上川郡温根別村にあったことで、午前十時頃道路から人のはげしい悲鳴が聞えたので、皆が駈け寄って見たら、道に小さな風呂敷包みと鮮血に染った帽子が落ちていて、誰かが熊に襲われたことが判り大騒ぎとなって捜索したところ、天理教布教師の原田重美さんという二十四才の青年であることが判った(後略)》(「熊」)

 

『熊・クマ・羆』(林克巳、1971年)によれば、事件が起きたのは《一度降った雪も消えて、小春日和を思わせる晩秋の日》であったという。他にもいくつかの記録があるが、なかでも『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、1969年)の及川疆の談話が詳しいので適宜引用する。

 

《旭川で用事を済ませて帰宅途中の天理教の原田布教師が、大津澱粉工場を過ぎて百メートルほどのところで、突然飛び出してきたヒグマに担ぎ上げられ北側の斜面に連れ去られた。

 

 布教師の悲鳴は澱粉工場にも伝わり、働いていた連中は屋根に逃げるなど大騒ぎとなった。被害者に少し遅れて馬車で通りかかった某氏は、これまた悲鳴を上げながら馬の足も折れんばかりに町に走り込んだので、事件は町中に知れ渡った》

 

 文中の「某氏」というのは、以下に出てくる石橋のことだろう。

 

《私の家の向かいに石橋三次郎さんという人が住んでいた。(中略)この人の話では、今の観月橋の所で熊が行商人を襲い、連れ去るのを目撃したという。

 

 その時、石橋さんは馬に荷物を積んで温根別に向かう途中であった。ちょうど橋を渡ろうとする時で、橋の向かい側で助けを呼ぶ声が聞こえ、馬車から馬を外すのをどうしたかわからなかったといっていた》(『開基九十周年記念誌 風雪九十年ゆづり葉』所収、神山隆「クマ三題」)

 

 新聞によれば、通報と同時に警察隊が組織され、水村、佐藤、石田の3名の射手がそれぞれ隊を組んで追いつめ、午後0時半頃に落葉松林内において水村が3発で仕止めたという(『小樽新聞』昭和6年11月8日夕刊)。

 

 及川は以下のような詳細な回想を残している。

 

《斜面の上でこの熊は、猟師が三間に近づくまで微動だにせず、一気に躍りかかろうとした瞬間を射殺されたという。一発は両耳を貫通し、もう一発は両耳と両目の交差する眉間の一発で、事件発生からわずか二時間のことであったという》

 

 また別の資料では、石田が討ち取った生々しい状況を、次のように記録している。

 

《昭和の熊取り名人、士別の石田正一氏も青年時代までイパノマップにいた事があり、(中略)その状況を「熊を発見して近づくと、立ちあがり俺をにらむ、あの時は全身総毛立った。」と語っていた》(渡道以来の思い出 矢萩吉郎)」(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「朔北の地に根づいて 浅井隆則」)

 

 加害熊の遺骸は市街地に運んで解体したため “解体ショー” のような状況となったが、腹の中から被害者の肉体が取り出されると、現場は阿鼻叫喚の様相を呈したという。

 

《死体の半分はすでに喰われていてこの半分というのが消防番屋「現士別信金本店」で町民のみている中で老兇漢の腹中から血糊と一緒にとり出される。

 

 こわいものみたさ女ヤジ馬も現代言では失神とか、この山の王者のなれの果て、目方はそのまま測らなかったが脂気一つない肉だけですら四十三貫もとれたというからこれが健康なら優に百貫はこえていたであろう。

 

 被毛(ひもう)が頭から肩にかけ僅(わずか)に生えているだけの裸も同様、ひどい虫歯で満足なものは一本もない。目も鼻もただれていてこのままではとうてい冬は越すことが出来なかったにちがいない。

 

 ひ熊が人を襲うのは何の理由もなしにするものではなく、いろいろの条件が重なった結果であることを証明する様な事件であった》(及川疆)

 

 この哀れな加害熊の頭骨は、《北海道開拓に伴う貴き犠牲の資料として北大博物館に贈られ永久に保存さるる事となった》(『小樽新聞』昭和6年11月23日朝刊)というので、同館に問い合わせたが、残念ながら、そのような事実は確認できなかった。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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