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池田大作氏がラブレターを送った「あこがれの人」が本誌に語っていた創価学会「入信直前」の姿

社会・政治 投稿日:2023.11.19 17:13FLASH編集部

池田大作氏がラブレターを送った「あこがれの人」が本誌に語っていた創価学会「入信直前」の姿

2007年に本誌が撮影した池田大作名誉会長

 

 11月18日、創価学会池田大作名誉会長が、11月15日に死去していたことが報じられたとき、岸田文雄首相は米サンフランシスコで行われていたAPEC(アジア太平洋経済協力)の会合が終わり、帰国の機中にいた。

 

 しかし岸田首相は、すぐさま自身のX(旧Twitter)で《池田大作氏の御逝去の報に接し、深い悲しみにたえません》と弔意を表した。

 

 

 池田氏死去のニュースは、海外でも大きく伝えられた。

 

「池田氏は1972年の日中国交正常化より前から、中国との関係改善を重視していて、2007年に温家宝首相(当時)、2008年には胡錦濤国家主席(当時)がそれぞれ来日したときは、会談もしています。そのため、中国メディアはトップニュース扱いで池田氏のニュースを報じました。旧ソ連の最後の指導者・ゴルバチョフ元大統領と対談を重ねたこともあり、ロシアでも池田氏の死去はニュースになりました」(政治担当記者)

 

 内外に影響力があった池田名誉会長は、東京都出身。創価学会に入信したのは1947年、19歳のときだった。

 

「友人に誘われ、創価学会の座談会に出席したそうです。そこで、当時は理事長だった戸田城聖第2代会長と会い、入信を決意したとされています。

 

 1960年に第3代会長に就任。32歳という若さでした。翌1961年に、公明党の前身となる政治団体『公明政治連盟』を設立。1964年に『公明党』を結成して、同時に布教にも力を入れ、約100万世帯だった創価学会員世帯は、1970年台後半に800万世帯を超えました」(社会部記者)

 

 本誌は2005年、そんな「若きカリスマ」が入信する前後のエピソードを、当時の池田氏を知る女性から聞いている。この女性は1942年に家族で入信しており(2001年に脱会)、かつて家では毎週、学会の座談会が開かれていた。そこに、池田氏が参加したときのことだ。

 

「池田さんが19歳のとき、同級生だった私の姉に連れられて友人2人と来ました。夏の暑いときでランニングに何かを羽織った感じでした。そのとき、池田さんは冷やかし半分の感じで入信しなかったんですが、後日、私の義兄で教学部長だった人物の折伏(しゃくぶく)で入信することになったんです」(当時のインタビューより)

 

 本誌はその際、池田氏が21歳のころ、この女性にしたためた「ラブレター」を誌面で紹介している。そこには、「若葉の緑色まさるこの頃、何時も貴女の幻影が私の心を強く強くして来れる様に思われます」などの言葉が、流麗な筆致でつづられている。さらに「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます」「別れない! 誰が何と云っても永久に別れない!  肉体だけは汽車、汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れないと」など「小さいころから読書好きだった」(創価学会関係者)という池田氏らしく、文学的な表現で、あこがれの女性に対する情熱的な思いが書かれていた。

 

 ラブレターが女性に手渡されたのは1949年前後で、池田氏は東京・蒲田駅近くで事務の仕事をしながら「大世学院(現在の富士短期大学)」の夜間部に通っていた。

 

 世界平和を希求した池田氏の、「人を愛する心」が垣間見えるエピソードである。

( SmartFLASH )

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