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2カ月で4人が襲われた「恐怖のヒグマ村」馬の頭は千切られ胴腹に穴を開けて喰らいつくし【瀬棚村連続人喰い熊事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.12.16 06:00 最終更新日:2023.12.16 06:00

2カ月で4人が襲われた「恐怖のヒグマ村」馬の頭は千切られ胴腹に穴を開けて喰らいつくし【瀬棚村連続人喰い熊事件】

 

 北海道・渡島半島の瀬棚村(現せたな町)は、人喰い熊事件が継続して発生する全道でも珍しい地域である。

 

 事件記録をたどってみると、

 

明治21年(1888年):2名負傷
明治29年(1896年):1名死亡、3名負傷
明治38年(1905年):1名死亡(死体食害)
明治43年(1910年):4名負傷

 

 となり、反復してヒグマが人を襲う事件が発生している。今回は、2カ月で4人が襲われた明治43年の事件を振り返る。

 

 

 最初の被害は、明治43年9月13日のことだった。

 

《十三日午後四時半頃、瀬棚郡会津町より二十町の最内町大字藤助沢で渡邊初太郎(三八)が夫婦で畑作中、突然一頭の熊が現れて夫婦をめがけて来たので、二人とも懸命に逃げ出したが初太郎はついに追いつかれ、やむを得ず振り返って熊と組打ちを始めた。

 

 この間に女房はようやく村に走りついて誰彼に報知したところ、居合わせた村民一同は現場に来たったが、大勢刃物を振り回したところ、熊は一歩一歩と退くので、村民も一歩一歩と進み、被害者初太郎を介抱して午後十時四十分、連れ帰って入院させたが、初太郎は熊に抱きすくめられたために両脇下に重傷を受け、生命おぼつかないという》(『北海タイムス』明治43年9月17日)

 

 加害熊は3歳程度の若熊だったが、その他に15〜16歳の大熊と4歳くらいのヒグマ2頭、合計4頭が、昼夜の別なく付近に出没しており、事件の1週間ほど前にも、同村の江原役蔵の家の者5人が畑作中に追い回され、5人とも命からがら逃げ延びたという事件があった。

 

 また行商人八木某がリンゴを担いで通りかかると、ヒグマと行き会い、リンゴを捨てて逃げたが、ヒグマは散々食い荒らして、残りを持ち去ったという。

 

 事件は続き、10月19日には、瀬棚村の農夫が稲刈り中にヒグマと出会って格闘となり、《同人の後頭部および手腕を噛んだが、屈せず右手にする鎌で熊の頭部に切り付け、怯むところを起き上がってややしばらく睨み合う》(『小樽新聞』明治43年10月30日)という事件が起きた。

 

 さらに24日には、《字鍋坂の畑に一頭の大熊現れ、折柄大豆取り入れ中の松本定吉(四八)の後方より飛びかかるに同所に居合わせる同人妻キヨが大に驚き身を顧みずして熊に武者ぶりつき、手にせる鎌にて切り付けしに熊は不意を喰らってそのまま逃げ出し》(『小樽新聞』前掲)という事件が起きた。

 

 翌月の11月には《瀬棚郡会津町郊外の道路に一頭の大熊が現れ、西村庄太郎所有の馬の頭を千切り、胴腹に穴を開けて喰らい居るところへ、冷水村の長田鶴松(二三)が通りかかり、(中略)逃げんとせしも熊に追いつかれて後頭部を掻き取られ大負傷》(『北海タイムス』明治43年11月19日)の事件が起きている。

 

 このように瀬棚村では頻繁にヒグマが人を襲う事件が繰り返されてきた。

 

 では、なぜ瀬棚村に、長期にわたって人喰い熊が出没したのか。これらの事件現場をマッピングしてみたところ、ある傾向が浮かび上がった。それは加害熊の出没地点が、瀬棚村の中心を東西に流れる利別川の北側に限られていたのである。

 

 つまり、加害熊はすべて、瀬棚村の北に位置する狩場山一帯の山岳地帯から里に下りてきたと考えられる。

 

 狩場山のヒグマが南下した理由には、有力な仮説がある。それは狩場山一帯が北海道有数の「地すべり地帯」だという事実である。

 

「地すべり」は大規模な斜面の崩落を指し、「山津波」ともいわれる。中でも「キャップロック型崩壊」といわれるものは、非透水性の地層の上に透水性の地層が載っている地域で発生する。雨が降ると、雨水は透水性の地層に浸透するが、その下の非透水性の地層には浸みこまず、地下水となって滞留する。これが一種の潤滑剤となって、上層の地層が一気に滑り落ちる現象である。

 

 狩場山一帯には、このキャプロック型崩壊を起こしやすい、大規模な「地すべり地形」が、広範囲にわたって存在するのである。人間よりもはるかに鋭敏な感覚を持つヒグマが、異状な兆候を感じ取り、いち早く山を下って避難することは当然考えられることだろう。

 

 また、崩落によって付近一帯は完全に破壊されるので、ヒグマにとって重要な植生も根こそぎにされる。

 

 瀬棚村の人喰い熊騒動に戻れば、北部の狩場山地一帯には大規模な地すべり地形が広がっている。大雨が降れば、どこで大崩落が起きても不思議ではない。逃れるとすれば、もっとも安全な南部である。そしてそこには、真駒内川をはじめとしたいくつかの川があり、それらすべてが瀬棚村に通じているのである。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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